巣鴨の歴史散歩


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真性寺
 「巣鴨」の由来は、昔々その土地にあった大池に鴨が巣を作っていたことから巣鴨という地名が生まれたという説が残っている。
 また、街には石神井川、谷端川が流れ、多くの州や沼地があって葭が茂っており、その地形から州賀茂、菅面、州鴨、須賀茂、須賀母、洲処面、巣鴨などのいくつかの書き方がある。
 そもそも巣鴨という地域は広く、かつては現在の池袋の地域までを指していた。その昔は日本橋を出発して板橋の宿場へ行く街道の休憩所として栄えていて、その名残からか、今でも旧中山道沿いには約200店舗もの店が連なる、都内有数の商店街を形成している。明治後期に高岩寺が現在地に移転、山手線の駅ができてから参拝客で賑わい、現在では、「おばあちゃんの原宿」として有名で、とげぬき地蔵には連日多くの人が詰めかけている。


 真性寺



真性寺
 真性寺は、真言宗豊山派、医王山。開基は不明だが元和元年(1615)に中興された。
 享保年間(1716〜36)に深川の僧地蔵坊正元の発願のもと多くの人たちの寄進を受けて江戸六地蔵が建立。江戸府内に入る主要街道の入り口に6体の地蔵が設けられており、真性寺の地蔵は、江戸六地蔵の第四番となる。
 他にも御府内八十八箇所、九品仏、三十箇所弁財天にも数えられ、真性寺への巡礼が巣鴨発展の基になったといわれている。
 毎年6月24日には「百万遍大念珠供養」の行事が行われ、境内に敷いたゴザに参詣者が輪になって座り、長さ16mの大数珠を念仏を唱えながら順繰りに回していくもの。また、11月には菊まつりが開かれ多くの人たちで賑わう。


 地蔵の手前左の塀際には、寛政五年(1793)に建てられた松尾芭蕉の句碑があり、「志ら露もこぼれぬ萩のうねり哉」と刻まれている。
 本堂裏手の墓地の中はほどに江戸後期の漢学者北条霞亭の墓がある。

江戸六地蔵 銅造地蔵菩薩
 一番目 品川寺 (東海道)  
 二番目 東禅寺 (奥州街道)
 三番目 太宗寺 (甲州街道) 
 四番目 真性寺 (中山道)
 五番目 霊巌寺 (水戸街道)
 六番目 永大寺 (千葉街道)

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。


高岩寺 とげぬき地蔵



高岩寺   とげぬき地蔵


 曹洞宗萬頂山高岩寺は、慶長元年(1596)江戸湯島に開かれ、約60年後下谷屏風坂に移り、明治二十四年(1891)、区画整備のため、現在の地(北豊島郡巣鴨町)へ移転してきました。

 正徳三年(1713)、江戸小石川に住む田付という人の妻は、常に地蔵尊を信仰していました。その妻が一人の男の子を出産して後重い病に見舞われ25歳までしか生きられないと聞いた田付は、妻が日頃信仰していた地蔵尊におすがりするほかないと、毎日一心に病気平癒の祈願を続けました。
 すると、ある日の夜、夢に黒衣に袈裟をかけた一人の僧が現われ、「私の像(かたち)を一寸三分に彫刻して川に浮かべなさい」という。田付氏は、それは急には成し難いことを答えると、「ではあなたに印像を与えよう」といわれ、夢からさめました。不思議な夢と、ふと枕元をみると、何か木のふしのようなものが置いてありました。よくみるとそれは「彫ったものでも書いたものでもない」不思議な地蔵菩薩の御影なのでした。田付氏は命の通り、これを印肉にせしめて、宝号を唱えつつ一万体の御影をつくり、両国橋へ行き、一心に祈願しながらこれを河水に浮かべました。すると妻の病は治ったという。
 田付はこの尊像を高岩寺に奉納、これが延命地蔵菩薩(とげぬき地蔵)で、寺の本尊となった。そしていつしかこの尊像の御影をいただくと病気が治る(病のとげを抜く)との信仰が生まれ、「とげぬき地蔵」の名前の由来になったという。

本妙寺



本妙寺 元亀二年(1571)駿府に日慶が創立した法華宗陣門流の古い寺で、天正十八年(1590)徳川家康が関東奉行として江戸入城に際して、本妙寺も久世家、大久保家等と共に江戸へ移転し、はじめは清水御門内、その後、城域拡張に伴い飯田町、牛込御門内、小石川(今の後楽園)へと移動。寛永十三年(1636)出火のため全焼し、本郷丸山菊坂上に替地を受けた。
 しかし、明暦三年(1657)明暦の大火(振袖火事)によって悉く焼失した。大火から3年後に、客殿、庫裏を、6年後には本堂を復興し、明治四十三年(1910)現在地へ移転するまで本郷丸山にあった。本堂裏手には「明暦の大火」供養塔がある。


遠山景元の墓
遠山景元の墓
 遠山の金さんで有名な遠山景元は、江戸時代後期の幕臣で寛政五年(1793)遠景景普の子として生まれた。
 文政六年(1809)金四郎と改名し、文政十二年(1829)家督を相続、天保七年(1836)左衛門尉を許され、作事奉行、勘定奉行を経て天保十一年(1840)三月町奉行(北)に任ぜられた。翌年から老中水野忠邦による天保改革が始まったが、その進行中の天保十四年(1843)町奉行を罷免され、大目付に移動させられた。弘化二年(1845)町奉行(南)に復帰し、嘉永五年(1853)三月まで七年間にわたり勤役した。
 下情に通じた江戸時代屈折の名奉行といわれ、遠山の金さんとして様々な伝説がある。江戸歌舞伎三座取りつぶし策を、浅草の外れに移転させて存続させたのも遠山町奉行ともいわれている。隠居後は剃髪して帰雲と号し、市井に身をひそめて悠々自適の生活を送ったが安政二年六十一歳で病死した。法名帰雲院殿従五位下前金吾校邊日享大居士。明暦の大火(1657)の火元となったことでも知られる、本郷丸山の徳栄山本妙寺に葬られたが、本妙寺が明治四十四年この地に移転した時に改葬された。 



千葉周作の墓 千葉周作の墓
 千葉周作(寛政五年(1793)〜安政二年(1856)の生誕地は、宮城県花山村、宮城県古川市、岩手県陸前高田市の3説があるが、江戸時代後期の剣術の流派「北辰一刀流」の開祖であり、神田お玉ヶ池の千葉道場(玄武館)の総師範である。
 周作は通称で、名は成政。斎藤弥九郎・桃井春蔵とともに幕末3大剣客の一人である。門下から多数の幕末の重要人物を出している。主な人物として、浪士組幹部の清河八郎、山岡鉄舟、新撰組幹部の山南敬助などがいる。生年月日は1794年とする説もある。》千葉周作 玄武館へ

染井稲荷神社



染井稲荷神社
 江戸時代は西福寺が別当で、旧上駒込村染井の鎮守。
 染井稲荷神社周辺はむかし染井村といい、現在のそめいよしの町会のあたりに350年前にその名を刻んだ石造があることから、それ以前よりある地名と見られる。また染井稲荷神社が建てられたのはおよそ300年以上前で、関東大震災や戦災にも拝殿・本殿ともに燃えず、「火防の神」として信仰を集めた。
 染井稲荷神社にはご神体が二体あり、保食命の像と320年前に御霊入れされた十一面観音の石像が安置されています。
 社宝として葵の御紋入りの瓶子一対や奉納舞につかわれた締太鼓・胴長鼓が伝わっており、また「カンシンの股くぐり」の額も貴重なものです。

藤林山西福寺


藤林山西福寺  伊藤政武の墓
 新義真言宗の寺で藤林山歓喜院と号し、鎌倉期の木造阿弥陀如来立像が本尊で、創建は慶長期ともいう。藤堂家の下屋敷に近く、家中の祈願寺であった。山門右手に区内最古の明暦元年(1655)の六地蔵がある。また、境内に、「染井吉野の里」の碑が建てられている。

 墓地には、徳川吉宗の御用植木師で日本最初の園芸書「地錦抄」などの著作を残した伊藤伊兵衛政武[延宝四年(1676)〜宝暦七年(1757)]の墓がある。また、仙台藩最後の藩主伊達慶邦墓址記念碑がある。

藤堂家棟門


藤堂家棟門
  染井通りの南側にあった津藩藤堂家32万3千石の下屋敷裏門で、染井通りの反対側に移築されたもの。往時の大名下屋敷の雰囲気を伝える数少ない遺構となっている。

十二地蔵


十二地蔵
 道路二又の辻に、舟形に6体ずつの地蔵が2段に刻まれた珍しい十二地蔵である。
 高さは約1.7メートルあり、文字は彫られていないが江戸中期のものとされる。享保十五年(1730)の大火による犠牲者の冥福のために、近在の人々が建立したと伝えられている。

大国神社



大国神社
 天明三年(1783)大島氏が現在地に設立、木彫りの七つの大国神があり、大黒天の福神信仰と習合し、60日に一度の甲子の日に、宮司自らが彫った木の大黒天像を授けている。信者はその都度小さい像から順次大きい像を受ける習わしである。
 徳川十一代将軍家斉がまだ世子の頃、鷹狩りの途中にここに立ち寄り、間もなく将軍職を継いだことから、「出世大黒」「日出大黒」ともいう。

妙義神社



妙義神社
 日本武尊が東征の折、陣営を構えた処と伝えられ豊島区最古の神社である。また、太田道灌が出陣に際し文明三年(1471)同九年、十一年にも当社に戦勝を祈願し、その都度勝利を収めたことにより勝負の神として「勝守り」を授与している。境内に寛永十九年(1642)銘の庚申塔が残っている。
永十九年(1642)銘の庚申塔

芥川龍之介の墓



芥川龍之介の墓 左が墓が芥川龍之介の墓で、右が長男比呂志など芥川の墓である。
 大正期の代表的小説家。(1892年3月1日生まれ〜1927年7月24日に田端の自室で服毒自殺をする)江東尋常小学校、東京府立第三中学校(現両国高校)、第一高等学校、東京帝国大学(現東京大学)英文科と進む。大正三年に菊池寛、久米正雄らとともに同人誌、第三次新思潮を刊行する(東大在学中)。作品の中には、古典からヒントを得たものも多い。例えば、「羅生門」や「鼻」、「芋粥」などは今昔物語を、「地獄変」などは宇治拾遺物語を題材としている。代表作は「羅生門」「きりしとほろ上人伝」「或る阿呆の一生」「歯車」「河童」「西方の人」等であり、彼の死後、芥川賞が設けられた。親友の文藝春秋社主の菊池寛が、新人文学賞「芥川賞」を設けたのである。芥川賞は直木賞と並ぶ文学賞として現在も続いている。
 号、澄江堂主人、俳号、我鬼。俳優の芥川比呂志は長男、作曲家の芥川也寸志は三男である。なお、龍之介の名を「竜之介」と表記していたこともあった。
 「藪の中」は黒澤明によって映画化され、日本映画初のヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した。タイトルは『羅生門』と改称されている。

司馬江漢の墓



司馬江漢の墓 江戸時代後期の洋風画家で蘭学者。安藤氏の子として延享四年(1747)江戸四谷に生まれた。名は安藤吉次郎という。のち唐風に姓を司馬、名を峻(しゅん)に改めた。字は君嶽、江漢は号である。はじめに狩野派に学んだが飽きたらず、浮世絵師鈴木春信に師事して、春重の名で「夏月図(かげつず)」などを発表した。明治七年(1770)春信没後春信の偽物を描くが長続きせず、二世鈴木春信を気取って鈴木春重と称して美人画を多く描いた。同時に平賀源内の紹介で南蘋派(なんぴんは)の宋紫石(そうしせき)に学んで漢画を習得した。安永年間秋田蘭画の指導者小野田直武から洋風画の教えを受け、天明三年(1783)腐触銅版画(エッチング)の創製に成功した。晩年は老荘の思想に親しみ、文政元年(1818)10月21日72歳で死去した。本所猿江町にあった慈眼寺に葬られたが寺院の移転により改葬された。
 著書には、『西洋画談』『春波楼筆記(しゅんぱろうひっき)』『和蘭通舶(おらんだつうはく)』などがある。法名桃言院快詠寿延居士。墓標は生前に建てられた(文化7年)寿塔(じゅとう)である。


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