内藤新宿の歴史散歩


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成覚寺
 
 「内藤新宿」の「内藤」は、信州高遠藩の内藤家の中屋敷があったことによる。
 初代清成は徳川家康から、「馬で一息に回れる土地を与える」といわれ、清成の乗った駿馬は南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、広大な拝領地を得たという。
 
 「内藤新宿」の「新宿」は、江戸時代第一の宿場であった高井戸に対し、中間点にできた「新しい宿場」という説と、太宗寺周辺にあった人馬の休憩所「内藤宿」に対する本格的な新しい宿という意味で「内藤新宿」と名がついたという説が残っている。
 
 内藤新宿は、江戸四宿の一つとして発展していき「四谷 新宿 馬の糞」という表現は、この街道がとてもにぎわい物資の運搬などが盛んであった有様を示している。


雷電稲荷神社



雷電稲荷神社
 雷電稲荷神社の創建については詳らかでありませんが、天龍寺の造立で、近江の故地より移したものとも、源義家公の時代の創建であったものを天明年間(1781〜89)に再建したともいわれます。


 雷電稲荷神社は昭和三年に花園稲荷神社(現花園神社)に合祀され、花園稲荷神社は花園雷電稲荷両社と改称しました。 

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。


天龍寺



天龍寺
 天龍寺の前身は遠江国にあった法泉寺とされます。法泉寺は徳川家康の側室である西郷局の父、戸塚忠春の菩提寺でした。西郷局が江戸幕府第2代将軍となる徳川秀忠を産んだことから、家康の江戸入府に際し遠江国から現在の牛込納戸町付近に移され、名を天龍寺と改めました。法泉寺の近くを流れていた天竜川から天龍寺の由来がきているといわれています。しかし天和の大火により焼失したため、内藤新宿に1万2千坪の寺地をもらいうけ現在の地へ移転することとなりました。
 


 天龍寺はまた、常陸笠間城主牧野家の菩提寺で、明和4年に牧野備後守貞長が寄進 した鐘が残っています。江戸に9つ(浅草、上野、小伝馬町、増上寺など)あった時刻を告げる鐘、登城の武士が遅れないように,他の地より遠方のため定限より早めについたため、遊女屋の客を追い出す、別名「追い出しの鐘」と称されていました。
 この鐘は、上野寛永寺、市ヶ谷八幡の鐘とともに江戸の三名鐘とうたわれ、現在は有形文化財に指定されています。      

太宗寺

 
内藤氏の墓
 太宗寺は、このあたりに太宗という名の僧侶が建てた草庵「太宗庵」がその前身で、慶長元年(1596)頃にさかのぼると伝えられています。その後、寛永六年(1629)、安房国勝山藩主であった内藤正勝の葬儀を行うことによって、内藤氏との縁が深まり、寛文八年(1668)に正勝の長男重頼から寺地の寄進を受け、太宗を開山として太宗寺が創建されました。
 内藤家の菩提寺として、七代清枚以後は歴代当主や一族が太宗寺に葬られるようになり、現在も墓所が残っています。


江戸六地蔵 銅造地蔵菩薩
 江戸六地蔵は、江戸に入る6本の街道の入り口にそれぞれ安置されたもので、太宗寺は3番目になります。正徳二年(1712)の刻銘があり、夏目漱石の「道草」にも登場してきます。
 一番目 品川寺 (東海道)  江戸六地蔵 銅造地蔵菩薩
 二番目 東禅寺 (奥州街道)
 三番目 太宗寺 (甲州街道) 
 四番目 真性寺 (中山道)
 五番目 霊巌寺 (水戸街道)
 六番目 永大寺 (千葉街道)





閻魔大王像と脱衣婆像



閻魔大王像と脱衣婆像
 閻魔大王像は、文化十一年(1814)に安置され、江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めてきました。総高5.5m、都内最大の閻魔大王像になります。
 閻魔堂内左手に安置されているのが、脱衣婆像になります。脱衣婆像は閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から、衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったとされています。
 また、衣服をはぐところから、内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰されていました。
 現在は、お盆の7月15・6日に御開扉されています。


三日月不動像
 不動堂には、額の上に銀製の三日月を持つため、三日月不動と呼ばれている三日月不動像が安置されています。三日月不動像
 高尾山薬王院に奉納するため甲州街道を運搬中、休憩のために立ち寄った太宗寺境内で、盤石のごとく動かなくなったため、不動堂を建てて安置したと伝えられています。新宿山の手七福神、布袋尊
 額の上の三日月は、「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで、あまねく済度せん」との誓願によるものといわれているため、像の上の屋根には窓が取り付けられ、空を望むことができるようになっています。
 不動堂には、新宿山の手七福神、布袋尊も安置されています。
塩かけ地蔵

 その他境内には、切支丹灯籠や塩かけ地蔵などが建っています。
 塩かけ地蔵様は、塩を頂いて帰って、願いが叶ったときに倍にして返すそうです。

正受院



正受院
 正受院は、文禄三年年(1594)、正受乘蓮和尚を開山として創建された浄土宗の寺で、会津若松藩主の菩提寺であった。
 太宗寺と正受院には、それぞれ脱衣婆像が安置されており、太宗寺は「葬頭河のばあさん」正受院は「綿のおばば」と呼ばれ、民衆の信仰それぞれを集めた。正受院の「綿のおばば」は綿帽子をかぶっているからで、咳止めに効き目があるといわれている。現在では「子育て老婆尊」とも称されている。


平和の鐘
 正受院の梵鐘は、昭和十七年(1942)に太平洋戦争による金属供出のため失われたはずであったが、戦後になってアメリカ合衆国のアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊が所有していることが判明し、昭和三十七年(1962)に正受院へ返還された。このため、正受院の梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれている。

     平和の鐘              綿のおばば

成覚寺



成覚寺
 成覚寺は、文禄三年(1594)建立の正式名「十劫山無量寿院成覚寺」の浄土宗寺院で、江戸時代には「投げ込み寺」と呼ばれたことで知られている。昔、遊女たちが死ぬと、米俵やさらし木綿にくるまれこの寺に投げ込まれたという。
 境内にある「子供合埋碑」は、江戸時代、内藤新宿にいた飯盛女(遊女)達を弔うために、万延元年(1860)に宿場の旅籠主たちによって建てられたもので、宿主が遊女のことを子どもと呼んでいたためこの名がつけられたという。



旭地蔵旭地蔵
 旭地蔵は、宿場内で不慮の事故で亡くなった方たちと、なさぬ恋に絶望して心中した遊女と客を供養するために建てられた。内藤新宿の草分名主喜六の5代目によって玉川上水の天竜寺橋そばに、寛政十二年(1800)に建立され、明治十二年(1879)ここに移った。




恋川春町の墓
 江戸の中期に浮世絵師・狂歌師・戯作者として活躍し、本名を倉橋格、また俗称を寿平といった。小石川春日町に住んでいたので“恋川春町」と号した。恋川春町の墓
 多数の書に挿絵を描いており、中でも安永四年(1775)自画自伝の「金々先生栄花夢」を出版し大評判となる。また、黄表紙という新ジャンルを開拓し、当時の文学界に影響を及ぼした。
 墓石の左側面に辞世の句
「生涯苦楽四十六年 即今脱却浩然帰天 我も万た身はなきものとおも
ひしが 今ハのきハ さ比しかり」とある。

三遊亭円朝旧居跡

 三遊亭円朝旧居跡
 明治の東京落語界を代表した三遊亭円朝が、明治二十一年(1888)から二十八年(1895)まで住んだ場所。
 円朝は、天保十年(1839)湯島切通しの生まれで、二代目三遊亭圓生に入門し、真打ちの時、円朝と改名した。
代表作は、「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」「塩原多助」など。とくに新宿在住時は、新宿や戸塚を舞台とする「怪談乳房榎」や「名人長次」などを書き上げ、まさに円熟期にありました。

新宿御苑

 新宿御苑
 もと信濃高遠藩内藤家の下屋敷で、戦前は天皇家の庭園であった。
 ここに、明治七年、農事修学所が設けられたが、これが東京大学農学部の前身である。
 現在は、国営公園として日本・フランス・イギリス式庭園に分かれ、梅・桜・バラ・菊など四季の花を楽しむことができる。

内藤新宿開設三百年記念碑

 内藤新宿開設三百年記念碑
 元禄十一年(1698)6月、浅草阿部川町の名主・高松喜兵衛(後の喜六)らの願いにより、ここから新宿三丁目交差点付近までの約1kmに、新たな宿場として「内藤新宿」が開設された。
 この宿場は、享保三年(1781)に一旦廃止されたが、54年後に再興されて以降、甲州・青梅両街道が交差する、交通の要衝として、また文化と娯楽の町として繁栄をつづけ、平成十年(1998)、開設三百年を迎えることとなった。

斎藤茂吉終焉の地

 斎藤茂吉終焉の地
 新宿の大京町と
     いふとほり
        わが足よわり
             住みつかむとす

 空襲で南青山の自宅を失った後昭和二十五年にこの場所にすみ、昭和二十八年二月二十五日に没した。
 歌は最後の歌集「つきかげ」に収められている。
 斎藤茂吉は、近代短歌史上に示された輝かしい業績をのこした歌人である。

四谷大木戸跡 と 水道碑記

  四谷大木戸跡  水道碑記
 四谷大木戸(間口2間半)は甲州道中を往来する人々を糺す目的で元和二年(1616)に設けられたといわれ、大関戸とも記し、霞が関、旭の関ともいったという。(東海道の高輪の大木戸と同様)
 四谷大木戸の碑は、地下鉄丸ノ内線工事の際、四谷の新宿通りから発見された玉川上水の石樋を利用して、昭和三十四年に建てられたものである。

 大木戸際の北東にある馬改め番屋も同様の目的で徳川家康の江戸入り直後に置かれたといわれ、元禄年(1652-1704)までは府内から付出す荷物はここで在町荷主問屋等の手形を改めた。
 大木戸・番屋ともに寛政四年(1792)に取り払われた。なお、大木戸撤去後は甲州道中の両側に石垣(明治九年撤去)が築かれた。承応年中(1652-55)の玉川上水工事の際数ヶ月町人達が商売が出来なかったため、一町の左右に五箇所ずつ井戸を許されたといわれており、町内には玉川上水石樋から分水を設けた井戸が甲州道中に五ヶ所ある。
 水道碑記は高さ5メートルほどの漢文で記された石碑で、玉川上水を開いた玉川兄弟の功績をたたえた内容となっている。

多武峯内藤神社

 
多武峯内藤神社
 多武峯内藤神社は、江戸初期に初代内藤清成氏が屋敷内の地(現在の新宿御苑)に家祖である藤原鎌足公を祀り(内藤神社)を草創したことに始まり、また藤原氏の氏神である奈良の春日大社より分霊を歓請合祀してあります。
 明治十九年に新宿御苑の地より現在地へ移設、遷座され今日に至っています。
当初は「武州多武峯神社」と称していましたが、昭和42年5月に「多武峯内藤神社」に改称されました。駿馬塚







 神社の右手には駿馬塚が建てられています。徳川家康が内藤清成に、現在の新宿御苑一帯を示し「馬でひと息に回れるだけの土地を与える」と語り、清成の乗った駿馬は、南は千駄ヶ谷、北は大久保、西は代々木、東は四谷を走り、疲れ果て死んでしまったといいます。この馬を供養するため、後に内藤家の森林の管理役となった中家休昌と木下正敷が、文化十三年(1816)に塚を造り、駿馬塚の碑を建てたといわれています。


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