神田、岩本町、秋葉原の歴史散歩


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神田明神
 神田は、江戸時代前までは現在の大手町の平将門首塚付近から駿河台にかけての一帯を指していましたが、天正八年(1590)、江戸幕府ができる際に、現在のJR神田駅の西側に広がる一帯となりました。これは戦略的な重みを考えて、西・北の台地の方向に、有力な大名屋敷を配し、東・南・北の低湿地帯に町家を集めたことに始まります。東の日本橋から、南・北の神田へは、水運に恵まれ日本橋から鎌倉河岸に至るまで、魚河岸や青物市場が開かれたこともあって、町家(商人・職人)の街(いわゆる下町と呼ばれている)が形づくられていきました。
 「神田の生れよ。チェキチェキの江戸っ子でい」という、威勢のいいタンカは、江戸庶民の町として発展していった神田の職人街から生まれました。 

 神田明神


  神田明神
 
 神田明神は、天平二年(730)、真神田臣によって現在の東京都千代田区大手町・将門塚周辺)に創建され、神田ノ宮と称した。承平五年(935)に敗れ亡くなった平将門の首が京から持ち去られ神田ノ宮近くに葬られたが、嘉元年間に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶二年(1309)神田明神に奉祀しました。そして、江戸城拡張の際に現在の地へ移りました。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれています。
 
 慶長五年(1600)、徳川家康が天下分け目の関ヶ原の戦いに挑む際に、神田明神で、戦勝のご祈祷を行なったところ、見事に勝利し天下統一を果たしました。これ以降、徳川家より縁起の良い祭礼として庇護を受けるようになり、いままで、平将門は朝廷に対する反乱者であったため、長期間、祭神として公にされませんでしたが、寛永三年(1626)徳川幕府によって朝廷から許しを得て、祭神となることになりました。しかし明治に入ると再び弾圧され、平将門は祭神から外され代わりに少彦名命が大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和五十九年(1984)になって本社祭神に復帰した。

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【神田明神 御祭神】
 神田明神 だいこく様


 【一之宮 大己貴命】
 だいこく様。縁結びの神様。天平二年(730)に鎮座。
 国土開発、殖産、医薬・医療に大きな力を発揮され、国土経営、夫婦和合、 縁結びの神様として崇敬されています。
 島根県の古社・出雲大社のご祭神でもございます。









神田明神 えびす様
 【二之宮 少彦名命】
 えびす様。商売繁昌の神様。
 商売繁昌、医薬健康、開運招福の神様。
 高皇産霊神の子で、手のひらに乗るほどの小さな姿ながら知恵に優れ、だい こく様とともに日本の国を作ったという。






【三之宮 平将門命】
 平将門様。除災厄除の神様。延慶二年(1309)に神田明神に奉祀。
 平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆けとして、関東の政治改革をはかり、命をかけ 
 て民衆たちを守った人物です。

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。



神田明神四條流庖丁儀式

【動画】


神田明神だいこく祭

【動画】

神田明神 獅子舞おみくじ

【動画】

聖橋

 聖橋
 JR御茶ノ水駅東口を出て左にかかる橋。関東大震災の復興橋りょうとして、昭和二年7月に完成。橋長92.47メートル、幅22メートルである。
 湯島聖堂とニコライ聖堂の両聖堂から聖橋という名がついたという。

昌平橋

 昌平橋
 昌平橋は、寛永年間(1624〜44)の完成と歴史のある橋である。
 以前は、芋洗橋・相生橋などと呼ばれていたが、元禄四年(1691)徳川綱吉が湯島聖堂を建設した際に、孔子誕生の地の昌平にちなんで昌平橋と改名したという。
 明治六年(1873)に大洪水によって橋は一度壊れてしまいましたが、昭和三年(1928)に現在の橋が完成しました。

筋違見附門跡

 筋違見附門跡
 昌平橋、万世橋の間にレンガ造りの高架橋がある。この周辺が江戸城の外郭門のひとつ「筋違(すじかい)御門」があり、外堀の役割をしていた。
 江戸時代、万世橋前を「八ッ小路」と呼び、八方から道が集まる江戸で最も賑やかな場所のひとつであったという。
 「八ッ小路」の名の由来は、筋違、昌平橋、駿河台、小川町、連雀町、日本橋通り、小柳町、柳原の各口に続いていたことからきている。

万世橋

 万世橋
 万世橋は、明治五年(1872)に、筋違見附門が取り壊された際に、その枡形石垣を使って東京ではじめての石橋として作られた。
 作られた当初は、眼鏡橋と呼ばれていたが、明治三十六年に万世橋と改称された。

柳森神社

       柳森神社
 長禄元年(1457)、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして創建。多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことから柳森神社と名がつけられた。

柳森神社 力石 
 若者たちが自分たちの力を図るために用いられていたといわれる「力石」。
 柳森神社境内にある「力石」は、大正年間(1912〜1926)、当時この道の力士として有名であった神田徳三こと飯田徳三とその一派が使っていた力石の一部と伝えられている。



柳森神社 富士講関係石碑群
【富士講関係石碑群】
 柳森神社は、延宝八年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祀した富士浅間神社を、合殿・合祀しました。
 これらのことから、柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚なども境内に築かれていたと思われています。
 千代田区指定有形民俗文化財である。

交通博物館

 交通博物館
 鉄道開通五十周年事業として、大正十年(1921)、東京駅北部に交通博物館が設立。昭和十一年(1936)に万世橋のこの地へ移動となった。平成十九年(2007)にさいたま市大宮に鉄道博物館として新たに出発することとなり、この場所は閉館となった。

講武稲荷神社

 講武稲荷神社
 講武稲荷神社は、安政四年(1857)、講武所付属地の払い下げを幕府に願った大貫伝兵衛が、長昌寺に安置されている此稲荷神社に参拝したところ見事に願いがかなったことから、お礼に建てたといわれている。

千葉周作 玄武館



千葉周作 玄武館
 幕末の三剣客、千葉周作の道場跡。(幕末の三剣客とは、一般に千葉周作、桃井春蔵、斉藤弥九郎といわれている)
 中西派一刀流の流れを汲む浅利義信に入門し、腕を磨き、独立し北辰一刀流を創始した。
 文政五年(1822)秋、日本橋品川町に玄武館という道場を建て、後に神田於玉ヶ池に移転し、多数の門人を抱えて、桃井春蔵の士学館、斎藤弥九郎の撃剣館とならんで、江戸の三大道場といわれた。
 坂本竜馬、清河八郎、海保帆平などが弟子としていた。


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