増上寺の歴史散歩


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増上寺
 上野の寛永寺と並んで徳川家の菩堤寺として知られている浄土宗大本山の大伽藍。
 明徳4年(1393)に浄土宗第八祖聖聡(しょうそう)上人によって武蔵国豊島郷貝塚、現在の千代田区平河町から麹町にかけての土地に創建されたといわれています。
 徳川家康公が天正18年(1590),門前を江戸城入城のため通りかかったときに、ときの住職存応(ぞんのう)上人出会い、深く帰依したため、徳川家の菩提寺として増上寺が選ばれたと伝えられています。2代将軍秀忠をはじめ歴代6人の将軍(6代家宣、7代家継、9代家重、12代家慶、14代家茂)が眠っています。
  現在地である芝に移転したのは、慶長3年(1598)8月,江戸の築城・都市計画に伴い移転し,,完成したのは慶長16年(1611)である。
 かつては、南廟と北廟があり、その美しさは日光東照宮をしのぐとさえいわれていました。



増上寺

海雲寺

海雲寺

 「品川の荒神さん」として知られ、火と水、台所の神様として親しまれています。



 「大門」 と 「三解脱門(三門)」

 増上寺 大門

 現在、駅名にもなっている大門は、増上寺の総門・表門にあたり、地名の由来になっている門です。 
 慶長3年(1598)に江戸城の拡張・造営にあたり、増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、徳川家康により寺の表門として譲られたものでありました。その大門は大正十二年(1923)の関東大震災により倒壊しかかったため、両国・回向院に移築されましたが空襲により焼失してしまいました。
 現在の大門ものは国道の整備のため、旧大門より大きく、コンクリート製に作り直されたものです。
増上寺 三解脱門(三門)


 
 慶弔10年(1605)の建立といわれる高さ21メートルの大門である。東京都内最古の建築物にして東日本最大級を誇るこの門は、正式名称を三解脱門といい、一般には三門といわれています。一度強風で倒壊しましたが、元和9年(1623)、徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井正清とその配下によって再び建立された三戸楼門、入母屋造、朱漆塗造りの門になります。
 三門とは、解脱するために入る空門、無想門、無作門を意味しています。
 増上寺が江戸の初期に大造営された当時の面影を残す唯一の建造物で、階上には釈迦如来とその脇侍の普賢菩薩・文殊菩薩の木像仏が安置されており、国の重要文化財に指定されています。


増上寺 三解脱門(三門) 釈迦三尊像


 2011年9月17日から11月30日までの間、戦後初の三解脱門一般公開が行われています。
三解脱門楼上には、中央に釈迦三尊像が置かれ、その両隣りに十六躯の羅漢像が安置されています。
 仏像の作者は不明でしたが、最近の研究で室町時代末から江戸時代初期にかけて南都をを中心に活躍した下御門仏師・宗印一門の手によるもので、製作年代は天正末期から慶長前半辺りと推測されています。

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 「鐘楼堂(梵鐘)」 



増上寺 鐘楼堂 東日本で最大の梵鐘。
 鐘楼堂は寛永十年(1633)に建立されたが、現在の鐘楼堂自体は戦後の再建によるものであります。
 鐘楼堂に収められている大梵鐘は、延宝元年(1673)にあまりの大きさに七回の鋳造を経て完成し、江戸三大名鐘の一つに数えられています。重さはじつに4000貫(約15t)もあります。
 朝と夕べ、六度ずつ響くその鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いでもあります。江戸時代の川柳に読まれた鐘の音は、遠く木更津や熊谷までも響いたとされています。「西国の果てまで響き芝の鐘」の川柳は、周辺に有馬家や島津家など西国の大名屋敷があったため詠まれたといわれています。

「安国殿」と「グラント松」と「ブッシュ槙」

増上寺 安国殿
 安国殿は、徳川家康公の法名(安国院殿)からその名をとり、本尊は、恵心僧都の作と伝えられる秘仏黒本尊(阿弥陀如来)が祀られています。秘仏のため、御開帳は祈願会、正月・五月・九月の十五日だけになります。
 また、両脇陣には、和宮像、聖徳太子像、仏舎利などが祀られており、庶民の信仰の中心として親しまれてきました。


増上寺 グラント松  増上寺 ブッシュ槙

 左写真は、明治十二年(1879)、アメリカ合衆国第十八・十九代大統領グラント将軍が訪日の際、参拝記念に植樹されたもの。
 右写真は、昭和五十七年(1982)、アメリカ合衆国第四十一代大統領ブッシュ大統領が副大統領として来日した際、参拝記念に植樹されたもの。
 

台徳院霊廟惣門

増上寺 台徳院霊廟惣門
 芝ゴルフ練習場の入口に位置する台徳院霊廟は、寛永9年(1632)に3代将軍徳川家光公により造営されたもので、2代将軍徳川秀忠の墓所になります。芝の徳川家霊廟の中で、最も規模が大きく、朱漆塗りの八脚門で、左右に金剛力士像が安置されています。 

千躰子育地蔵尊

増上寺 千躰子育地蔵尊
 子育て安産に霊験あらたかとされる西向観音にちなみ、子供の無事成長、健康を願い昭和50年(1975)より順次奉安されています。
 毎年4月に大祭、7月には盆踊り大会が開催されてます。

「徳川将軍家墓所」



増上寺 徳川将軍家墓所 戦災にあうまでは、増上寺の南側に2代将軍徳川秀忠公、北側に6代将軍家宣、7代将軍家継など当時の技術を結集して作られた御霊屋があったが、現在では写真の鋳抜門と2代将軍宝塔にその面影を見ることしかできない。
 鋳抜門は左右の扉に五個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれています。
 将軍以外では、崇源院(二代秀忠公夫人)、皇女和宮さま(十四代家茂公夫人)ら五人の正室、三代家光公側室桂昌院(五代綱吉公実母)はじめ五人の側室、及び三代家光公第三子甲府宰相綱重公ほか歴代将軍の子女多数が埋葬されています。

≫もっと詳しく徳川将軍家墓所へ

熊野神社

増上寺 熊野神社
 元和十年(1624)、増上寺第十三世正誉廓山上人が熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。
 『熊野』は「クマノ」・「ユヤ」と二通りの呼称がありますが、「ユヤ」権現として親しまれています。

め組供養碑


 境内での力士と鳶の「め組」との大喧嘩は「め組の喧嘩」として有名で、歌舞伎にもなっています。
 享保元年(1716)建立。増上寺門前の町火消しで有名な「め組」の殉難者・物故者の供養のために建てられた。
》め組 辰五郎の墓へ


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