兜町周辺の歴史散歩


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智泉院

 江戸時代以前の兜町周辺は、沼地になっていましたが、徳川家康によって埋立てられ、武家屋敷が立ち並ぶようになりました。現在の東京証券取引所あたりには、牧野讃岐守の広大な下屋敷があって、その庭園は江戸名園のひとつに数えられていました。
 明治元年(1868)の明治維新によって武家地が明治政府に収公されて官有地となると、兜町の地には、民部省通産司や政府公認の米商会社のほか大小の銀行が設立され、金融の中心地になります。また、明治維新の恩賞として、兜町周辺の土地を三井家等が受け取り、「兜町」と名づけられました。
 渋沢栄一を中心に明治四年(1871)に第一国立銀行本店が、明治十一年(1878)には東京証券取引所の前身である東京株式取引所が設立され、商業の街へと急速に発展していくことになります。大正十二年(1923)の関東大震災により、辺りは焼け野原となってしまいますが、現在ではアメリカのウォール街のような金融街へと発展しました。



兜神社


 兜神社   兜岩


 ここは藤原秀郷が将門の首を運ぶ途中、この地に将門の兜を落としたので、兜を埋めて塚を築いたという言い伝えがあり、以前は「兜塚」と呼ばれる塚があったという。       
 又、源義家が前九年の役(1051〜62)で、陸奥の安倍頼時追討のとき、この神社の「兜岩」に戦勝を祈願したという伝説が残っています。
 明治四年(1871)東京商社(三井物産の前身にあたる会社のひとつ)の移転に伴い、鎧稲荷と兜塚は、鎧の渡と兜橋の間に遷され、この時に、源義家を御神霊として兜神社を創建しました。この兜神社は鎧稲荷と合併して、兜町の鎮守としての兜神社となりました。
 明治七年(1874)兜神社は、源義家の祭祀を止めて、大国主命と事代主命を合祀することになり、新しい御祭神は、兜町一帯の土地を所有している三井家が信仰していた三囲(みめぐり)稲荷神社(墨田区向島2丁目にあります。)の境内摂社である福神社から分霊してもらったものになります。


境内に兜岩と呼ばれる岩があり、いくつかの由来が残っています。


1.源義家奥州より凱旋の際、東夷鎮定のため、兜を楓川のほとりに埋め一塊の塚となし、これを兜塚といった。


2.前九年の役の頃、源義家が東征のみぎり岩に兜を縣けて戦勝を祈願したことからこの岩を兜岩と呼ぶようになった。


3.俵藤太秀郷(藤原秀郷)、平親王(平将門の尊称、天慶三年(940)2月14日戦死)の首を打って兜に添へて是まで持来れるが、兜をば弦に埋めて塚となし兜山と云う。 

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。


鎧の渡し跡



鎧の渡し跡
 鎧の渡しは、江戸元禄年間以来の地図や地誌類にも記される渡し場で、明治五年(1872)に鎧橋が架けられるまで存続しました。
 伝説によると、平安の昔、源頼義が奥州討伐の途中、ここで暴風逆浪にあい、鎧を海中に投げ入れ竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたので、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれます。一説には平将門が兜(かぶと)と鎧を納めたところとも伝えられています。
 「江戸名所図絵」や安藤広重の「名所江戸百景」には、渡しの図が描かれ、また、この渡しを詠んだ俳句や狂歌等も知られています。


 縁日に 買ふてぞ帰る おもだかも 逆さにうつる 鎧のわたし
                
                                        和朝亭 国盛

鎧橋



鎧橋
 鎧橋が最初に架けられたのは明治五年(1872)、当時この近くにあった 三井家 などの豪商が 木橋 を架けたのが始まりという。
その後、明治二十一年(1888) には鉄骨製のトラス橋に架け替えられ、大正に入ると路面電車を通すために拡幅されている。
 現在の橋は、昭和三十二年(1957)7月に完成したもので、ゲルバー桁橋と呼ばれるものです。
 由来は、平安時代からこの場所にあったといわれる 「鎧の渡し」 から付けられている。

小網神社



小網神社
 社伝によれば、500年以上前の室町時代の創建と伝えられている。文正元年(1466)に疫病が流行した際に霊験を示し、それに伴い小網稲荷社として祀られた。
 現社殿と神楽殿は、尾洲総檜造りで、重厚な彫刻が施され、中央区文化財となっている。
 正月初詣・大祭(5月28日)・東京銭洗い辨財天大祭(10月28日)・東京下町の奇祭どぶろく祭(11月28日)は多くの人たちで賑わいをます。
 日本橋七福神、福禄寿、辨財天を祀る。
⇒小網神社の場所はこちら (楽天 旅ノート)

郵便発祥の地

 郵便発祥の地
 

 日本の近代的な郵便制度は、明治四年(1871)前島密の創意により、まず、東京-大阪間で始まりました。
 ここは新制度発足当時、駅逓司(今の郵政省)と東京の郵便役所(今の中央郵便局)が置かれたところで、昭和三十七年(1962)、前島密の胸像と記念碑が建てられました。

銀行発祥の地

 銀行発祥の地


 明治五年(1872)の国立銀行条例に基づいて、三井八郎右衛門、小野善助ら8名の出願によって明治六年(1873)、日本で初めて国立銀行「第一国立銀行」が建てられた場所。
 当時は和洋折衷の壮麗な建物だったという。現在はみずほ銀行が建っており、記念のレリーフが残されている。

海運橋親柱

  海運橋親柱  海運橋親柱
 海運橋は、楓(もみじ)川が日本橋川に合流する入り口に架けてあった橋です。江戸時代初期には高橋と呼ばれ、橋の東詰に御船手頭向井将監(しょうげん)忠勝の屋敷が置かれたので、将監橋とか海賊橋と呼ばれていました。御船手頭は幕府の海軍で、海賊衆ともいっていたためです。
 橋は、明治維新になり、海運橋と改称され、同八年に、長さ八間(約十五メートル)、幅六間(約十一メートル)のアーチ型の石橋に架け替えられました。文明開化期の海運橋周辺は、東京の金融の中心として繁栄し、橋詰にあった洋風建築の第一国立銀行とともに、東京の新名所となりました。
 石橋は、関東大震災で破損し、昭和二年鉄橋に架け替えられました。このとき、二基の石橋の親柱が記念として残されました。鉄橋は、楓川の埋立てによって、昭和三十七年撤去されましたが、この親柱は、近代橋梁の遺構として、中央区民文化財に登録されています。

日枝神社日本橋摂社



日枝神社日本橋摂社
 千代田区永田町の旧官幣大社・日枝神社の摂社・御旅所である。天正年間(1573〜92)より、日枝神社の祭礼に八丁堀北嶋祓所の御旅所まで神輿が船で神幸したことを起源とする。寛永年間、現社地が御旅所に定められた。
 明治十年(1877)、日枝神社と改称して無格社となった。大正四年(1945)、本社の日枝神社が官幣大社に昇格したのに伴い、本社の境外摂社とされた。関東大震災の後、昭和三年(1928)に社殿が造営された際、境内末社の北野神社・稲荷神社・浅間神社の祭神を本殿に合祀した。

智泉院



  智泉院  智泉院の地蔵
 智泉院は、上野寛永寺の末寺として現在では想像もできないほどの壮大な寺院であった。また茅場町薬師の名で広く知られた名刹で、縁日には植木市も開かれ、江戸庶民の厚い信仰を集めていました。
 鎧島山(がいとうさん)智泉院(天台宗)の本尊薬師如来は、平安中期の恵心僧都(えしんそうず)(源信)作と伝えられ、江戸時代には、山王権現の本地仏として、山王御旅所(現、日枝神社)内にありました。明治時代の廃仏棄釈などの影響もあって、現在、この薬師如来は川崎市の等覚院に安置されています。
  瑠璃殿前の天水鉢は、天保十二年(1841)に本尊が開帳されたのを記念し、奉納されたもので、銘には当時の坂本(現、兜町)という町名や、町に住んでいた人々の名が刻まれています。鋳出した釜屋七右衛門は、通称釜七といって、江戸では有名な鋳物師でした。この天水鉢は、当時の賑わいを現在に伝えるものとして、中央区民文化財に登録されています。


 青銅製で像高は 235p。 作者は日本橋本小田原町で生まれた彫刻家、 戸張狐雁。 関東大震災でなくな った人々の供養のために、 日本橋魚河岸の“地蔵講”が製作発願し、 昭和二年9月1日除幕式が行われた。

電灯供給碑



電灯供給碑
 明治二十年(1887)11月21日、東京電燈会社がこの地にわが国初の発電所を建設し、同月29日から付近の日本郵船会社、今村銀行、東京郵便局などのお客様に電燈の供給を開始しました。これが、わが国における配電線による最初の電燈供給でありまして、その発電設備は直立汽缶と、30馬力の横置汽機を据付け、25キロワットエジソン式直流発電機1台を運転したもので、配電方式は電圧210ボルト直流3線式でありました。
                  電灯供給碑より

宝井其角住居跡



宝井其角住居跡
 俳人榎本其角(1661-1707)の住居跡、宝永四年(1707)終焉の地、享年47歳。芭蕉門下の高弟。江戸に生まれ、元禄年間からこの地に住み、没した。代表作に、「錦とりてねびまさりけり雛の顔」「越後屋にきぬさく音や更衣」「日の春をさすがに鶴の歩みかな」


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