日本橋周辺の歴史散歩


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日本銀行本店本館

 天正十八年(1590)徳川家康が江戸に来てすぐ着手した、江戸城の増築と外郭の整備工事に続いて慶長八年(1603)日本橋の街づくりに着手します。城下町としての日本橋に求められたのは、何よりもまず江戸と地方を結ぶ交通輸送路の確保であり、江戸開府と同じ1603年、日本橋が架けられました。
 日本橋は東海道を代表する五街道の起点で、その北詰側に朝だけで千両の金が落ちる魚河岸があり、今の人形町付近には夜千両が落ちる遊郭・元吉原があった。また現在の日本銀行本店は、江戸時代の金座跡である。



日本橋



日本橋


 日本橋が架けられたのは慶長八年(1603)といわれています。
 豊臣秀吉から関八州の支配を任された徳川家康が、江戸の街づくりの中でまっ先に行ったのが日本橋川の整備と架橋でした。
 橋の上の人出の多さは今も昔も変りなく、「ふる雪の白きをみせぬ日本橋」といわれていました。
 以来、何度も架け替えられてきた日本橋ですが、現在のルネッサンス式花崗岩の石造りの日本橋は明治四十四年(1911)に建造された20代目になります。平成十一年(1999)には重要文化財に指定され、橋柱の「にほんばし」の文字は、最後の将軍徳川慶喜の筆によるものです。
 なお、日本橋の名前の由来は、架橋当初は単に木二本が渡されただけの「二本橋」だったものが、橋の改修とともに「日本橋」に変わっていったという説が残されている。


         日本橋        日本橋

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。




日本国道路元標



  日本国道路元標   東京市道路元標


 日本橋は、江戸初期の慶長九年(1604)、五街道の整備によって起点となり、街道の一里塚の里程の原点であった。明治時代以後も国道の起点となり、現在は橋上の道路中央部に「日本国道路元標」の銅板が埋設されている。写真は、橋の北詰に建っているレプリカでその隣にある「東京市道路元標」も、もとは橋の中央部に建てられていた

日本橋魚河岸跡


 江戸初期から大正十二年(1923)まであった魚河岸の跡。
 隅田川へと続く日本橋川の水運を活かし、水路の整備が進められ、縦横に走る水路を通じて物資が運ばれるようになると、荷揚げ場所にはさまざまな河岸が立つようになりました。その代表的なものが「日本橋魚河岸」。
 慶長年間(1596〜1615)に、摂津国佃村出身の森孫右衛門ら3名が江戸城に納めた魚の殘りを城下の人々に売ったのがその起源と伝えられています。
 大正十二年(1923)の関東大震災で築地に移転するまで、日本橋北詰の東側一帯は江戸・東京の一大魚市場として栄えていました。

日本銀行本店本館



日本銀行本店本館
 日本銀行本店本館は、明治二十九年(1896)の建設になるネオ・バロック様式の石造建築。辰野金吾(東京駅の設計者)が、ベルギーの国立銀行を参考にして設計したといわれている。中央区内最古の石造建築物であるとともに、この地は金座の跡地でもある。「金座」とは、勘定奉行の支配下にあり、御金改役を長官として、幕府から大判を除く金貨鋳造に関する独占的な特権を与えられていた金座人と呼ばれる町人によって構成された、いわば半官半民の事業団体のことである。


 文禄四年(1595)に徳川家康が後藤庄三郎光次に命じて、駿河と江戸のこの地に屋敷を与えて金銀改役を設けさせたことから、金座ははじまる。明治二年(1869)に造幣局が設置されると、金座は廃止された。

日本銀行貨幣博物館



日本銀行貨幣博物館
 昭和五十七年(1982)日本銀行創立100周年を記念して設置され、昭和六十年(1985)11月に開館した。
 日本の古代から現在までの貨幣の歴史をわかりやすく解説した博物館であり、和同開珎や、現存する金貨としては世界最大といわれている天正大判などの貴重な展示品が数多く展示されている。また、1億円分の紙幣の重さを体験出来るコーナーもある。

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渋沢栄一銅像



渋沢栄一銅像
 日本資本主義の父といわれた渋沢栄一。天保十一年(1840)2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島の農家に長男として生まれた。
 徳川15代将軍慶喜に仕え、実力を発揮し認められるようになると、徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞して回った。
 明治維新となり欧州から帰国した栄一は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わっていくこととなる。


 明治六年(1873)に日本最初の銀行である「第一国立銀行(現みずほ銀行)」を設立。企業の創設 ・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれてる。
 渋沢栄一の評価が今でも高いのは 「私利を追わず公益を図る」という考えを生涯に渡って貫き通し「渋沢財閥」を作らずに社会貢献に熱心であったからだと考えられます。

常盤橋門跡



 常盤橋門跡   常盤橋   常盤橋門跡


 旧常盤橋(常磐橋)は天正十八年(1590)の架橋された様式石造二連アーチ橋で、東京では最も古い橋のひとつです。
 現在の橋は明治十年(1877)に建造されましたが、老朽化は激しく、車道橋の役割は常盤橋に譲り、今は人が渡るばかりとなっています。
 周囲の石垣は江戸城の外濠の城門跡で、浅草・千住をへて奥州街道と水戸街道へ通じる出入口で、江戸初期には大橋とも浅草口橋とも呼ばれ木橋が架けられていました。
 門跡は、国の記念物(史跡)に指定されています。また、常盤橋の両橋は、平成十九年(2007)3月28日に千代田区景観まちづくり重要物件に指定されました。

十軒店跡


十軒店は、本石町と本町に挟まれた小さな町だったが、人形を扱う店が集まっていることで有名であった。
 三月の桃の節句には、内裏雛や禿(かむろ)人形を、五月の端午の節句には、甲(かぶと)人形や鯉幟を売る仮店が十軒あったことから、十軒店の名があるといわれ、寛永江戸図などに記載があり、この頃からすでに名高いものであった。 十軒店の出店は、寛政年間(1789〜1801)には41軒を数えるようになったといわれ、その賑やかさや雑踏ぶりが偲ばれます。 この十軒店の名は、町名として大正時代まで残っていました。

長崎屋跡



長崎屋跡
 江戸時代、ここは長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸登城、将軍拝謁の際の定宿になりました。将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは四年に一回となっています。


 商館長に随行したオランダ人の医者の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者、蘭学者が訪問し、長崎以外における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収していた場として有名になりました。
鎖国下における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。

三浦按針遺跡


 三浦按針(1564〜1620)英人ウイリアム・アダムスの日本名。
 オランダ東印度会社東洋派遣隊の航海士であった英人ウイリアム・アダムスは、慶長五年(1600)暴風のため大分県の佐志生に漂着した。日本に渡来した最初の英国人です。のち、徳川家康の通商顧問になり、日英貿易の発展に貢献しました。
 現在、室町1丁目地内にある按針居住の地は、昭和5年6月、東京府史跡の指定を受け、同7月、地元有志の手で記念碑が建てられましたが、戦災で破壊され、昭和26年5月に現在の記念碑が建てられました。

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