江戸・東京 台東区の歴史散歩

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目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。

 上野周辺の歴史散歩 Part1

 上野の地名の由来は、諸説がありますが、一般的には、台地の低地部分を下谷と称したことの逆に台地だったところから上の野という意味で上野と呼ばれ、それが地名になったという説が妥当のようです。
 その他には、 1.江戸時代初期に伊賀上野の城主であった藤堂高虎の屋敷地で、地形が本拠地の伊賀上野に似ている点から「上野」と命名したという説。 》続きを見る
西郷隆盛銅像

 上野周辺の歴史散歩 Part2

 寛永二年(1625)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、江戸城の鬼門にあたる上野山に東叡山寛永寺を創建した。寛永寺は上野山全体を覆う大寺院で、スケール面で延暦寺に肩を並べるものであった。天海は、さらに権威づけるために、徳川3代将軍家光の代になると、新王を寛永寺の座主として迎えることとした。寺領も正保三年(1646)に2100石だったが、幕末には10000石に達していた。》続きを見る


旧寛永寺五重塔

 浅草周辺の歴史散歩 Part1

 浅草寺の北部は、「浅草田圃」と呼ばれる広大な田園地帯が広がっていたが、明暦三年(1657)明暦の大火(振袖火事)により吉原遊郭も旧地人形町から今の新吉原に移り、独特の情緒の文化が開花した。また天保改革によって江戸三座と名高かった市村座、中村座、森田座などの芝居小屋も、猿若町に寄せ移り、浅草は名実共に歓楽街として栄えていった。
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浅草寺 雷門

 浅草周辺の歴史散歩 Part2

 浅草とは、「台東区東側約半分の地域に対する総称地名で、隅田川西岸一帯を浅草とよんだ。範囲は東が隅田川、南が神田川、北が思川別名駒洗川で囲まれる地域。明治十一年(1878)〜昭和二十二年(1947)まで台東区発足まで区名にもなった。浅草の地名の由来には、》続きを見る


浅草寺 二尊像

 稲荷町、田原町の歴史散歩

営団銀座線、稲荷町駅として駅名となっている稲荷町は、近くの下谷神社が江戸時代には下谷稲荷と呼ばれていたことから由来しているといわれている。同じく、田原町は昔このあたりが浅草寺の田畑だったためといわれ、このあたりの農民が農閑期の副業に浅草紙を漉いていたので紙漉町の俗称もあった。 》続きを見る



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