浅草周辺の歴史散歩 Part2


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二尊像
 浅草とは、「台東区東側約半分の地域に対する総称地名で、隅田川西岸一帯を浅草とよんだ。範囲は東が隅田川、南が神田川、北が思川別名駒洗川で囲まれる地域。明治十一年(1878)〜昭和二十二年(1947)まで台東区発足まで区名にもなった。浅草の地名の由来には、諸説があり、アイヌ語のアツアクサ(海を越すという意味)にちなむとか、チベット語のアーシャ・クシャ(聖のおわす所の意味)に由来するなど。定説は「江戸往古図説」が「往古下谷より此わたりへかけて平地にして武蔵野の末にて草もおのづから浅々しき故浅草と云しなるべしといへりさもあらんか」と述べている部分、つまり 武蔵野は茅が深かったが、浅草は草の割合が少なかったのでその名前がついたとされる。

五重塔


五重塔


 五重塔は浅草寺本堂・雷門・宝蔵門と同じ天慶5年(942)武蔵守、平公雅(たいらのきんまさ)により建てられたと伝えられるが、長久二年(1041)火災によって倒壊し、寛永十二年(1635)再建、同十九年炎上したという記録が残っている。
 その後慶安元年(1648)三代将軍徳川家光公により再建され、寛永寺・増上寺・天王寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれ後の明治四十四年には国宝指定を受けていたが、惜しくも昭和二十年の戦災により焼失した。

 昭和四十八年11月1日に鉄骨鉄筋コンクリート造りで回廊式「塔院」の上に五重塔を建てる「塔院造り」の方法で再建され、回廊式の塔院には霊牌殿があり百体の聖観音像と信徒の方々が納めた1万2千基の永代供養の位牌が安置されている。
 五重塔の最上階にはスリランカのイスルムニヤ王立寺院から奉載した「聖仏舎利」を納め、途中階には信徒奉納の「五輪宝塔」が奉安されている。
 五重塔は昭和20年戦災による焼失までは観音本堂に向かって右側に位置していたが、昭和五重塔は左側に建造され、地上53.32m(塔のみ48.3m)を誇る高さは京都東寺に次いで高い五重塔である。

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目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。




二尊像



二尊像 「濡れ仏」の名で知られる二尊仏は、貞享四年(1687)8月に、江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町の太田久衛門正儀によって作られた。
 二像のうち、向かって右側は観世音菩薩、左は勢至菩薩で、像の高さは共に2.36mで、蓮台を含むと4.5mにも及ぶ。諸経に、この二菩薩は阿弥陀仏の左右に侍して、その教化を授けると説かれている。
 願主は、上野国(現、群馬県)の高瀬善兵衛という人で、かつて奉公した日本橋伊勢町の米問屋への謝恩と菩提のために建立した。観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るためと、蓮弁台座銘に記されている。基壇の組石は、長さ約12m、幅6.21m、高さ1.5mとなっている。

浅草神社



浅草神社 三社明神、あるいは、三社様と親しみを込めて呼ばれる浅草の総鎮守。
 社伝によれば、推古天皇三十六年(628)、檜前浜成・武成の兄弟が宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていたところ、網に人形の像がかかった。兄弟がこの地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺とした。これが浅草寺の始まりである。
 土師真中知の没後、真中知の子の夢に観音菩薩が現れ、そのお告げに従って真中知・浜成・武成を神として祀ったのが浅草神社の起源であるとしている。
 実際には、平安時代の末期から鎌倉時代にかけて、三人の子孫が祖先を神として祀ったものであると考えられている。
 徳川家康の東照大権現を合祀したことから三社権現と呼ばれるようになった。
 明治の神仏分離により浅草寺とは別法人になり、明治元年(1868)に三社明神社に改称、明治五年(1873)に郷社に列し、明治六年(1874)に現在の浅草神社に改称した。


 現在の社殿は、徳川三代将軍家光公が慶安二年(1649)に浅草寺本堂と同時に再建したもの。建築様式は、本殿と拝殿との間に「石の間」を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造りで、国の重要文化財に指定されている。

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 江戸三大祭りの一つ浅草三社祭は、5月17・18日ごろの数日間行われ、多くの人たちで賑わう。

花塚の碑

花塚の碑
 「濁流」の花道の師、笠翁斎乱鳥翁の死を悲しんだ弟子たちによって文化元年(1804)建てられた。
 笠翁斉乱鳥は、享和三年(1803)に享年88歳で死去。浅草本然寺(曹洞宗・現、浅草3-25-3)に埋葬されたが、戦後の昭和三十一年に観音堂裏手東北より移転。

江戸・東京の農業 檜前の馬牧

江戸・東京の農業 檜前の馬牧
 宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため天皇の命令により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置された。
 東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって、「檜前の馬牧」はここ浅草に置かれたのではないかと考えられている。

中村吉右衛門の句碑

中村吉右衛門の句碑
 「女房も同じ氏子や除夜詣」

 初代中村吉右衛門(実名、波野辰次郎)は、明治十九年3月24日に浅草に生まれ、幼少より舞台に立ち名声を得て、その後、大正から昭和期を代表する歌舞伎俳優となった。
 高浜虚子に俳句を学び、「ホトトギス」の同人となり、句集も3冊残されている。
 初めに秀山を号し、のちに吉右衛門の名を用いた。

花柳壽輔の句碑

花柳壽輔の句碑
 「雷は田町をよけて鳴りわたる」

 昭和四十四年、花柳寿応氏の建立。
 花柳壽輔は、文化四年2月19日、芝、新明で生まれる。明治三十六年1月28日、83歳でその生涯を終えるまで、花柳流の祖として、又、振付の第一人者として偉業を成した。
 「茨木」など不滅の傑作と絶賛される作品の残している。

市川猿翁の句碑

市川猿翁の句碑
 「翁の文字まだ身にそはず衣がへ」

 明治二十一年5月10日、浅草千束町2丁目に、父・喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助〜段四郎)、母・古登の長男として生まれる。兵役を終えたのち、明治43年10月に、22歳で二代目市川猿之助を襲名。その後、昭和37年5月に孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名する。その時に詠んだ句である。
 昭和三十八年5月に歌舞伎座で襲名興行を行い、その1ヶ月後に聖路加病院にて心不全のため死去。享年75歳。

神木 槐

神木 槐
 槐は中国原産の豆科の落葉高木で、高さは10mにもなる。
 浅草寺のご本尊の聖観音菩薩は推古天皇の頃、漁師であった檜前浜成・竹成兄弟により網得されて川辺の槐の木の切株に安置されたが、土師仲知が自宅内に堂を設けて観音様をお祭りしたのが浅草寺の起こりだと伝えられている。また、仲知達の子孫が3人を神様としてお祭りしたのが三社権現社であるから、槐は、浅草寺にとっても浅草神社にとっても、非常に因縁の深い木である。
 浅草寺境内の槐の木は、枯れては生えているので絶えることがないという。

「弁天堂」 と 「時の鐘」



弁天堂弁天堂
 本堂の東南、弁天山と呼ばれる小高い丘に建つお堂におまつりする弁天さまは、白髪のため「老女弁財天」と呼ばれ、「江の島」(神奈川県)、「布施」(千葉県柏市)とともに関東三弁天の一つに数えられる。縁日の「巳(み)の日」にお堂の扉を開き、法楽が営まれる。









時の鐘時の鐘
 浅草寺境内から除夜の鐘を響かせる弁天山の「時の鐘」は、元禄五年(1692)に徳川五代将軍綱吉の命により下総国関宿藩主牧野成貞が金200両を寄進、改鋳されたもので、江戸時代の「時の鐘」の一つで、松尾芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か 浅草か」で有名な鐘である。
 鐘の大きさは龍頭、鐘身あわせて総高2.12m口径1.16m直径1.52m。1945年の空襲で戦火を浴びるが無事に残り、鐘楼は焼け落ちたため1950年に再建された。現在でも毎朝6時に役僧によってつき鳴らされる。

松尾芭蕉像と句碑

松尾芭蕉像と句碑
 「くわんをんのいらか見やりつ花の雲」


 泰松堂書・佐脇嵩雪画。「奥の細道」などで有名な松尾芭蕉は、寛永二十一年(1644)に伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれた。俳号の由来は、深川の小名木川のほとりの俳詣の道場、「泊船堂」に門人が芭蕉1枚を飢えたことからと伝えられている。「俳聖芭蕉」の名をほしいままにした松尾芭蕉は、元禄七年10月12日に旅舎で51年の生涯を閉じた。
 この句碑は、寛政八年(1796)10月12日に芭蕉の103回忌に、浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くに建てられたが、戦後この地に移建された。、碑石は欠損してしまい碑面の判読も難しい。

添田唖蝉坊碑・添田知道筆塚

添田唖蝉坊碑・添田知道筆塚
 添田唖蝉坊、本名は平吉、筆名といい、唖然坊のほか不知山人、のむき山人、凡人など。明治20年代に壮士節の世界に入り、のちに演歌の作詞、作曲、演奏などで活躍していた。代表作には「四季の歌」などがあり、「浅草底流記」、「流行歌明治大正史」などの著書もある。
 昭和十九年2月8日、73歳で死去。


 添田知道は唖蝉坊の長男で、東京出身、77歳で死去。父唖蝉坊と共に演歌の作詞・作曲を経たのち、作家活動に入った。演歌の代表作品には「東京節」などがあるほか、新潮文芸賞受賞の長編小説「教育者」などがある。


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