旧東海道・品川宿の歴史散歩Part2


 HOME > 品川の歴史散歩 > 旧東海道・品川宿の歴史散歩Part2
品川神社
 御殿山の桜、海晏寺の紅葉など、四季を通じて品川宿は江戸市中からの行楽客で賑わった。
 江戸幕府は慶長六年の東海道開設当初から宿駅の飯盛女は、許可制であったが、暗黙の了解で無許可を容認していた。ところが、享保三年(1718)に従来の方針を改革し、東海道の各駅の旅籠に、1軒につき二人ずつの飯盛女を置くことを許可したのである。品川をはじめとする江戸の4宿は別格で、宿駅伝馬の必要度が、他の宿駅に比べケタ違いに多かったので、経済負担を補うために、「宿場女郎」(飯盛女は公認の宿場女郎ではない)を置くことが許可されていた。いずれにせよ、最盛期には旅籠屋.水茶屋あわせて180軒との説もあり、遊女の数も、2000人を超えたという。
  


荏原神社



荏原神社 恵比寿
 和銅二年(709)9月9日奈良元官幣大社丹生川より高?神(龍神)の勧請を受けて南品川に創建したとつたえられる古社である。
 康平五年(1062)、源頼義・義家の父子は奥州安倍氏征伐に際し荏原神社と六所宮に参詣し、品川の海中で身を浄め、戦勝祈願をした。
 以降、源氏、上杉氏、徳川氏など多くの武家の信仰を受け、品川の総鎮守として崇敬された。明治八年、荏原郡の名をつけて荏原神社に改称した。
 荏原神社のお祭りは六月の最初の週末に行われるが、同じ時期に行われる品川神社の祭礼と区別するため、「南の天王祭り」とよばれ、御神輿の海中渡御で知られている。
 荏原七福神の恵比寿様になります。

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。




稼穡稲荷神社

 稼穡稲荷神社
 もとは薩摩藩の抱屋敷に祀られていた稲荷で、荏川稲荷とも呼ばれている。幕末、薩摩藩からここの地元に抱屋敷が譲渡され、この稲荷も一緒に譲渡されたという。
 稲荷横に立つイチョウは高さが23メートルもある立派なものである。

品川橋

 品川橋
 品川橋は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、江戸時代には境橋と呼ばれていた。
 最初は木の橋だったが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋と時代とともにその姿を変えてきた。

 品川神社



品川神社
 文治三年(1187)に源頼朝が海上安全の守護神として安房国の洲崎大明神である天比理乃咩命を勧進して創建した。中世に入って二階堂道蘊が社殿を建立、文明十年(1478)には太田道灌が?園社を勧請して相殿とし、天正十九年(1591)に、徳川家康が南品川の荏原神社と合わせて5石を社領を与えており、この地の歴代の統治者から庇護を受けてきたことが分かる。寛永十四年(1637)に東海寺が建立されると、品川神社はその鬼門除けの鎮守とされた。





 石段右側の富士塚は明治二年に富士信仰集団「富士講」が築山したもので富士山の遥拝場所もしくは富士山代わりに登山した場所である。春分の日に7つの鳥居をくぐると長寿祈願ができるという7つの鳥居がある。社殿裏には板垣退助の墓もある。
 品川神社は、「牛頭天王」をまつる?園社との相殿であることから、祭礼は「天王祭り」だが、荏原神社の祭礼と区別するため「北の天王祭り」とよばれている。祭礼に担ぎ出される大神輿は3代将軍徳川家光が寄進したもので、葵の紋が付いている。

⇒品川神社の場所はこちら (楽天 旅ノート)

品川宿本陣跡

品川宿本陣跡

 現在の、聖蹟公園が品川宿の本陣跡である。
 品川宿の本陣は、はじめ南品川と北品川に一軒づつあったが、南品川宿はなくなり、江戸時代中頃から北品川宿本陣のみとなった。
 本陣とは本来であれば、戦国大名の戦場での本陣を意味しているが、ここでは、それぞれの宿場で一番大きく設備の整った住居を大名が宿としたため、この宿のことを本陣と呼ぶようになった。
 品川宿本陣は明治五年に宿駅制度が廃止されて、明治九年跡地に警視庁品川病院が建てられたが、昭和十一年に移転してから、昭和十三年以来、聖蹟公園となった。
 明治元年、明治維新の大政奉還に際し、京都から江戸へ向かった明治天皇が、この本陣に宿泊したことから、「聖蹟公園」と名づけられた。

一心寺

一心寺
 「品川の不動さま」と親しまれている一心寺。安政二年(1855)に大老井伊直弼が「鎮護日本・開国条約・東海道随一の宿場町品川宿場町民の安泰」を願って開基した。本尊は千葉成田山からの不動明王で商売繁盛の御利益が在ると信じられる。
 また、東海七福神のうち「寿老人」が安置されている。

養願寺

養願寺
 鎌倉時代の正安元年(1299)の開創と伝えられる天台宗の寺院。本堂に続いて虚空蔵尊像があり、「品川の虚空蔵さま」と呼ばれ親しまれている。毎年春と秋に大祭を行っている。
 虚空蔵尊は「十三詣り」と結びついて、子供が十三歳より十五歳までにお参りすると、福・徳・智慧が授かると言われ、丑年・寅年生まれの守り本尊としても知られている。大祭日には本尊の御開帳があり、護摩が焚かれ多くの参詣人が訪れる。
 また、東海七福神のうち「布袋尊」が安置されている。

法禅寺

法禅寺
 至徳元年(1384)の開創とされる法禅寺。芝の増上寺の末寺で、浄土宗の寺院。
 境内にある「流民叢塚碑」は天保の飢饉で亡くなった人々の供養塔。891人が亡くなり、法禅寺と海蔵寺に葬られた。そのうち、500人余りが法禅寺に埋葬された。

御殿山下砲台跡

御殿山下砲台跡
 嘉永六年(1853)に、ペリーと4隻の軍艦によって巻き起こされた衝撃により、徳川幕府は急遽、品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を造って、江戸の町の防御に備えることにしました。しかし、資金不足等々の問題により工事を途中で挫折。代わりに品川から陸続の砲台場が造られ、大小260門の大砲が据え置かれた。これが、御殿山下砲台である。

利田神社

利田神社
 寛永三年(1626)に、沢庵和尚が東海寺の鬼門除けとして勧請した弁天堂がはじめと伝えられている。洲崎弁天とも呼ばれ、安藤広重の浮世絵にも描かれている。
 維新後に、利田神社の社号を公称する神社となり、祭神も弁財天から市杵島姫命に変わった。

鯨塚

鯨塚
 利田神社の境内に「鯨塚」がある。
 寛政十年(1798)5月1日、暴風雨のため品川沖に迷い込んだ鯨を、この周辺の漁師が捕らえた。この話が江戸市中に広まり、大騒ぎとなった。
 塚は三角形の自然石で、俳人の谷素外が詠んだ「江戸に鳴る冥加やたかしなつ鯨」の句が彫られている。

土蔵相模跡

土蔵相模跡
 旅籠屋を営む相模屋は外壁が土蔵のようなナマコ壁だったので、土蔵相模と呼ばれていた。
 高杉新作や久坂玄瑞らは、ここで密議を練るなどしていたという。

問答河岸碑

問答河岸碑
 沢庵和尚が3代将軍徳川家光から「海近くにして東(遠)海寺とはこれいかに」と問答され、「大軍のみを率いても将(小)軍というがごとし」と返答したという。
 このことから問答河岸と呼ぶようになった。


Copyright c2008 tokyo-rekisi, All Rights Reserved.