旗の台、中延、二葉、西大井の歴史散歩


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旗岡八幡神社
  「旗の台」もしくは「旗岡」という地名は、平安時代に源頼信が下総の平忠常の乱を平定に赴く際、旗岡八幡神社辺りの台地に陣を張り、源氏の白旗を立て、夢のお告げで得た持参の八幡大菩薩の神像を祀って戦勝を祈願したことからと伝えられている。


 「中延」は、15世紀後半の文献に、「荏原郷中之部品川筋」といった記述が残っていることから、荏原の中部地域を示す意味で付けられたのではないかといわれている。


 「二葉」の地名は、昭和七年の品川区制施行によってつけられた新しいものである。江戸時代は、上蛇窪村と下蛇窪村、合併前は、上神明町と下神明町という名だったが、上下村がともに発展するようにと「二葉」と名付けられた。


 西大井6丁目には、初代内閣総理大臣の伊藤博文の墓所がある。昭和7年の区制施行時に伊藤公墓所にちなんで「大井伊藤町」と改称された。


伊藤博文墓所

  
  伊藤博文墓所

 初代総理大臣に就任した伊藤博文の墓地は品川区西大井6丁目にある。霊園や寺院墓地ではなく伊藤家だけの墓地で、塀が廻されている。入口には上部に灯篭の付いた立派な門柱と、「上がり藤」の紋のついた鉄扉があり、左側に「大勲位伊藤博文公墓所」と刻まれた石碑が建っている。
 高さ、直径ともに約2メートルの円墳の墓で、右隣には夫人の梅子の墓も建っている。

 伊藤博文は長州藩の下級武士の家に生まれ、吉田松陰の松下村塾で高杉晋作、久坂玄瑞などとともに学んだ。若いころは攘夷論を唱えていたが、イギリスに留学してからは開国論者に転じるようになった。明治四十二年(1909)満州のハルピン駅頭においてロシア蔵相ココフツォーフとともにロシア守備兵を検閲するために、随員を従えて兵士の前を通過したとき、韓国人安重根に狙撃され暗殺された。

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。


養玉院如来寺

養玉院如来寺
 養玉院は、寛永十二年(1635)に創建された上野寛永寺の塔頭「三明院」がその前身で、江戸初期に徳川家の最高顧問であった天海大僧正の開山。元禄十一年(1698)に下谷坂本へ移転し、対馬藩宗家の菩提寺となり養玉院と改称したという。
  木喰但唱(もくじきたんしょう)の開基、如来寺は、芝下高輪に創建された寺で、五智如来像を安置していたことから「高輪の大仏」と呼ばれていた。明治四十一年にこの地へ移ってからは、「大井の大仏」と呼ばれ親しまれていた。


 この2つの寺が大正十二年(1923)に合併して、養玉院如来寺と称するようになった。
対馬藩宗家の墓所


 五智如来堂「瑞應殿(ずいおうでん)」。ここに安置される五体の仏像(大日如来、釈迦如来、阿弥陀如来、宝生如来、薬師如来)は約3メートルもの大きく荘厳な如来像で、木喰但唱が心血を注いで彫り上げ、完成当時江戸有数の名作と賞賛されていたといいます。薬師如来以外は、火災で諸堂とともに焼失してしまいましたが、宝暦年間(1751〜1764)に再建された。
荏原七福神 布袋尊





また、養玉院如来寺は荏原七福神の「布袋尊」が安置されています。

上神明天祖神社



上神明天祖神社
 元亨二年(1332)に大旱魃が起き、そのとき厳正寺の当主であった法密上人は、厳正寺の北西にある龍神社に雨乞いの断食祈願をして雨を降らせたという。これに感激した近郷の村人たちが蛇窪にも神社を勧請し、祀ったのが天祖神社のはじまりだと伝えられている。
 
 また、明治に入り大井村と上蛇窪村、平塚村で水をめぐる農村間の対立などもあり境内には、「上蛇窪用水記念碑」も残されている。



荏原七福神 弁財天
 鎌倉時代、本殿の左手に清水の湧き出る洗い場があり、そこに白蛇が住んでいたという。ところがいつの間にか洗い場がなくなってしまったため、白蛇は土地の旧家森谷氏の夢枕に出て、一日も早くもとの住処に戻れるようにしてほしいと訴えた。森谷氏がこの話を社の宮司に伝えたところ、宮司は元の場所に池を掘り中央に小島を作って石祠に白蛇を祀ったとのこと。これが弁天社の始まりとなり、戦後に現在の位置に移されたという。
また、この弁天社は荏原七福神の「弁財天」が安置されています。

下神明天祖神社

 
下神明天祖神社

 旧下蛇窪村の鎮守。上神明天祖神社とは、もとは一つの神社で上・下それぞれの村の鎮守に分けたのではないかといわれているがはっきりとはしていない。


 境内には、大正から昭和にかけておこなわれた大規模な耕地整理事業の完成を記念した「平塚村耕地整理記念碑」が置かれている。

鬼門除け地蔵

  鬼門除け地蔵
 東光寺の鬼門除けとしてここに置かれているようだが、実際の位置は寺院のほぼ真北ある。
 下蛇窪村の男女講が寄進したもの。

二葉2-1-12
 

東光寺

  東光寺
 東光寺は、天文十三年(1534)什仙上人により開山された天台宗の寺院です。
 参道の中程には「下の病気」にならぬよう東司(トイレ)の守護の鳥瑟沙摩(うすさま)大明王が祀られています。他にも左写真の鬼門除け地蔵の前にあったという庚申供養塔が建てられています。
 また、東光寺は荏原七福神の一つ毘沙門天が安置されています。

法蓮寺

  法蓮寺
 法蓮寺は、文永年間(1264〜1275)八幡太郎義家の子孫が、荏原氏の居館内に創建した寺だといわれています。
 境内に社を建て、八幡大菩薩像を安置したことから旗岡八幡神社のはじまりといわれています。
荏原七福神 恵比寿

 また、荏原七福神の「恵比寿」が安置されています。

天明三年銘道標

  天明三年銘道標
 この道標は、旧中延村を横断する中通りと、平間道との分岐点にある。
 天明三年銘道標には「是より右うの木光明寺道、左池かミ道」と刻まれている。「うの木光明寺」は、浄土宗の古刹、「池かミ」は池上本門寺のことでで江戸時代には観光を兼ねた参拝客でにぎわったといいます。


池上本門寺へ
 

旗岡八幡神社

 
旗岡八幡神社
 「旗ヶ岡」「旗の台」という地名は、長元三年(1030)平忠常の乱を平定すべく、源頼信が下総へ向かう途中、この地に宿営し、白旗を立てて戦勝を祈願したのがその発祥とされています。
 江戸時代には、将軍家以下の武士階級に尊崇され、二代将軍徳川秀忠によって祈願所となりました。また、武家の崇敬を受け、毎年2月15日には江戸各地から集まった武士により、弓の競射をしたことは特に有名である。今も続く「甘酒祭り」は、この競射のあとに甘酒が振舞われたことに由来という。
 戦災で社殿等を焼失しましたが、昭和三十九年(1964)に再建されました。


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