芝の歴史散歩


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芝東照宮
 芝は、戦国時代までに、荏原郡柴村として成立する。(柴村は後に豊島郡の所属となる)
 江戸時代、慶長六年(1601)、金杉橋の南側の本芝一丁目を起点に東海道の整備によって柴村は急速に発展し、柴町・芝町とも呼ばれるようになる。またこの頃から、柴村の周辺地域も「芝」と呼ばれるようになる。
 芝大門には、「め組の喧嘩」でしられる芝大神宮、徳川将軍家の菩堤寺である増上寺があり、江戸時代、この周辺はたいそうな盛り場で、門前町には蔭間茶屋まであったという。
 現在は、東京タワーがそびえ立っているが、この敷地も、もとは増上寺と金地院の境内だった場所である。かつて増上寺の寺領は、浜松町駅から東京タワーのあたりにまで及んでいたというから、菩堤寺としての権勢がいかに大きかったかということを物語っている。


 「芝東照宮」

 
 芝東照宮
 もとは増上寺内の社殿にあったが、明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となった。
 徳川家康が還暦を迎えた記念に、自らの像を作らせた「寿像」を、駿府城に於いて祭祀していた。家康は死去する際「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建てるよう遺言を残した。社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」より「安国殿」と呼ばれ元和3年(1617)2月に竣工した。
 これが芝東照宮の起源である。
 芝東照宮 イチョウ






 その後、3代将軍徳川家光によって新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となった。寛永18年(1641)には移転改築がなさた。駿府城より移築された惣門、福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿、唐門、透塀が造営され豪奢な社殿が整った。
 本殿は大正4年(1915)旧国宝に指定されたが、昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失した。
 現在の社殿は昭和44年(1969)に再建されたものになる。

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海雲寺

海雲寺

 「品川の荒神さん」として知られ、火と水、台所の神様として親しまれています。




伊能忠敬測地遺功表碑

伊能忠敬測地遺功表碑
 丸山古墳の頂上にある伊能忠敬測地遺功表碑。
 これは伊能忠敬の功績を称え、明治22年東京地学協会によって建立されたものになります。
 戦時中の昭和18年金属供出によって無くなってしまいましたが、戦後の日本地学協会によって昭和40年5月に再建されました。

円山随身稲荷大明神

円山随身稲荷大明神
 円山稲荷は、丸山古墳上にあり、増上寺の裏鬼門に位置し、山内鎮守の重要な地を占めています。
 随身稲荷の由来は、増上寺がこの地に移建当時桑名よりお迎えしたご本尊を守護するために江戸までお供されたいわれからきているそうです。

ペルリ提督像

ペルリ提督像
 「太平の眠りを覚ます蒸気船、たった一杯で夜も眠れず。」と江戸後期の人々を安眠の眠りから目覚めさせた、ペルリ提督の銅像が建っている。
 1854年、日本に開国を迫ったぺルリは、アメリカの膨張主義思想の体現者で、日本にキリスト教文明を及ぼすことが米国の歴史的使命だと確信していた。彼はフリーメーソンのメンバーだといわれている。

万延元年 遣米使節記念碑

万延元年 遣米使節記念碑
 1860年2月9日新見豊前守正興一行は日米修好通商条約批准書交換の使命をおびて江戸竹芝より米艦ポーハタンに搭乗、初の使節として米国に赴いた。
 遣米使節渡航より百周年にあたり、日米両国民の友好親善の基礎を築いた記念碑になります。

首提灯

首提灯
 江戸時代、芝山内と呼ばれた増上寺の境内は、暗がりで、落語「首提灯」の舞台となった。侍とけんかした職人が、首を切られてもあまりの切れ味のよさに気が付かずそのまま首を首提灯にして、火事見物に行くという話は架空のことですが、当時のありさまをよく示しています。

浅岡飯炊きの井戸

浅岡飯炊きの井戸
 江戸時代、ここに良源院(増上寺子院)があり、仙台藩主伊達家の支度所であった。
 仙台藩の家督相続をめぐるお家騒動、いわゆる伊達騒動(寛文事件)の際、幼い嗣子の亀千代(のちの伊達綱村)を毒殺から守るため、母の浅岡の局が自らこの井戸で水を汲んで調理したと伝えられています。

芝大神宮

芝大神宮
 芝大神宮は、東京都港区芝に鎮座する都内有数の古社である。
 平安時代の中ごろに伊勢神宮の分霊を祭ったと伝えられていることから、「関東のお伊勢様」と呼ばれている。また、それいぜんは飯倉神明、芝神明と呼ばれていた。
 毎年秋に開かれる「だらだら祭り」は9月11日から21日まで、だらだらと長い期間行われるのでこう呼ばれるようになったという。。

金地院

金地院
 臨済宗の僧、幕府の政治家で「黒衣の宰相」と呼ばれた金地院崇伝が開いた寺院。
 武家諸法度の制定や朝廷外交に参画するなど幕府立法の基礎を作ったが、その権勢の大きさと、方広寺鐘銘事件時のような強引とも思える政治手法により、世人から「大欲山気根院僭上寺悪国師」とあだ名されたという。

宝珠院(港区七福神)

宝珠院(港区七福神)
 港区七福神のひとつ弁財天が祭られています。貞亨二年(1685)増上寺三十世霊玄上人が白蓮池に弁天堂を建立。同時に宝珠院を開創した。
 河川神ということで「川の流れのように淀みなく流れる」ことから、「弁説」「音楽」の才能の神として当初は弁才天と書いていたようですが後に財宝の財が好まれるようになりました。 
 また、宝珠院には、港区指定文化財の閻魔大王の像があります。

鹿島神社

鹿島神社
 常陸の鹿島神社からこの近くの海岸に小さな祠と十一面観音の木像が漂着し、これを祀ったことが鹿島神社のはじめといわれています。
 境内には寄席文字の家元の橘右近による「芝浜囃子」の碑があります。
 

薩摩藩上屋敷跡 と 西郷隆盛・勝海舟会見の地



薩摩藩上屋敷跡 NEC本社ビルの脇に薩摩屋敷跡の碑があります。屋敷は慶長三年(1867)の焼討事件でほぼ全焼し、跡地は、「薩摩ッ原」と呼ばれるようになったといいます。。
 焼討事件は、西郷隆盛の命を受けた、益満休之助、伊牟田尚平らが浪士に集合をかけ、乱暴行為を繰り返し行っていた。十二月に入ると、挑発行為はますますひどくなり、新徴組の詰め所に銃が打ち込まれる事件が発生した。これを受けた庄内藩、新徴組および幕府側の諸藩兵は三田の薩摩藩邸を包囲し、浪士の引き渡しを申し入れたが、その時、薩摩藩の留守居役篠崎彦十郎を血祭りにあげたことから、銃撃戦が行われ49人が戦闘で命を落とし、113名が捕縛された事件である。

西郷隆盛・勝海舟会見の地



 江戸城への総攻撃が目前となった慶応四年(1868)3月13,14日の両日、薩摩屋敷で西郷隆盛と勝海舟が会見し、無血開城が決められた。
 東征軍参謀西郷隆盛と幕府陸軍総裁勝海舟の会見は、幕末維新史を飾る一つの事件として伝えられている。明治になってから勝海舟が盛んにこのときのことを回想しているために、大変有名となった。


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