人形町・小伝馬町周辺の歴史散歩


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大安楽寺 延命地蔵尊

 江戸時代のはじめ、この周辺には歌舞伎小屋の市村座、中村座が建って賑わいをみせていたが、一般庶民には歌舞伎見物はなかなか高価な遊びだったため、浄瑠璃の伴奏で手軽に楽しめる操り人形小屋や浄瑠璃芝居の小屋、薩摩座や結城座があったそうです。そのため付近には人形を製作し、修理する人や、舞台で人形を操る人形師が大勢暮らしており人形を売る店が数多く並んでいたため、いつしか人形町と呼ばれるようになりました。正式には関東大震災以降の区画整理で昭和八年に人形町の町名となっています。
 また、人形町通り東側あたりに遊郭で有名であった吉原があった。明暦三年(1657)明暦の大火(振り袖火事)で辺り一帯が焼失したのを機会に幕府の命で浅草に移転することとなった。

 小伝馬町の周辺には牢獄があり、周囲を濠で囲み、広さは2,677坪余りもある広大な敷地でした。南に正門があり、その西に牢役人の石出帯刀の役宅がありました。幕末に吉田松陰が投獄されたことで有名となったが、明治八年(1875)に他に移転しました。



大観音寺



大観音寺
 大観音寺は、鋳鉄製観音菩薩像の仏頭を本尊としています。
 江戸33観音の3番目の札所。
 大観音は、鎌倉時代に、源頼朝の正室である北条政子が鎌倉の地に「新清水寺」を創建し、その本尊として奉安したのにはじまります。1258年の大火により新清水寺は焼失しましたが、本尊は寺僧の手により難を逃れ井戸の中に安置されましたが、この火災で頭部が落ち、現在の姿になったといわれています。
 その後、江戸時代に鶴岡八幡宮近くの鉄井(くろがねのい)から掘り出され、神仏分離の令で由比ヶ浜に破棄されようとしたところを、人形町の住人がご本尊を舟で運び、明治六年(1873)東京に移され、この地に仮堂を建て安置されました。明治九年(1876)が大観音寺の起源とされています。
 頭部のみですが、鎌倉時代に関東を中心に発達した鉄仏のうち、秀作といわれと指定の有形文化財に指定されています。
 お釈迦様の生誕を祝う花まつりでは、参詣客に甘茶やお菓子等がふるまわれます。

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目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。





玄治店跡



玄治店跡
 江戸時代、幕府のご用医者、岡本玄治が将軍家光の痘瘡を治した褒美に拝領した土地。
岡本先生はそこにいくつかの家を建てて庶民に貸した。そののちこの地は、商業が盛んな土地となり、ここに多くの店ができ、玄治店と呼ばれるようになった。
 家光の痘瘡を治療した時、その治療方法が唐書にないと春日局にいわれたことに腹を立てた玄治は、「唐になくて日本にあるものはいくらでもある。また通り一遍の唐書しか読んでないくせに生意気言うな」と啖呵をきったという。

三光稲荷神社



三光稲荷神社
 名人芸をうたわれた歌舞伎役者関三十郎が演技中、場内に霊光のごとき閃きがあり、観客は彼の芸体に放光したものと思い賞賛し、三十郎の名声を不動のものとしたといわれ、彼は伏見稲荷の神璽を庭内に奉斎していたため、これは神明の加護によるものと、自身の「三」と「光」の二字をもって三光稲荷と称し、これを長谷川町の大地主建石三蔵が庭内に安置し、町内の氏神として崇敬したといわれます。
元は人形町3丁目に接する道路に面していて、その前通りは三光新道と称されていました。また三光新道の人形町寄りには吉原を囲む「おはぐろどぶ」がありました。
 昭和八年の区画整理後現在地に移転して、その通りが三光新道と呼ばれるようになりました。
 古くから娘、子ども、芸伎等の参詣が多く、ことに猫族守護神として、猫を見失ったときに立願すれば霊験ありといい、鼠除の守札なども出していたようです。
 ちなみに三光稲荷参道と銘ある石碑(昭和二十九年建立)は東京大学教授三島徳七ご夫妻が、愛猫の不明に際し当社に祈願し、3ヶ月ぶりに無事戻った御礼にと建立されたものです。

椙森神社



 椙森神社  富塚の碑


 椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
 室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
 しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その債権の費用のために、有力寺社で当たりくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれていました。
 明治維新後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和六年に耐震構造の鉄筋造りで再建されました。 境内には日本では唯一といわれる富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正八年に建てられたもの、(昭和二十八年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
 また、日本橋七福神の恵比寿像が祀られている。

大安楽寺

大安楽寺  延命地蔵尊


 大安楽寺は、明治五年より勧進し、同八年一宇を建立。
 山号を新高野山というが、和歌山県高野山金剛峰寺から弘法大師像を迎えて本尊としたことによる。
 伝馬町牢屋敷が廃止になった後、長い間空き地になっていたこの地を東京府は公園としたが不浄の地であると嫌って利用する人はほとんどいなかった。また火事の際に家財道具をこの場所に避難すると不思議にも皆焼失してしまったため、恐れられ誰も住もうとしなくなってしまった。そのため、明治政府は市街地には寺院を作らない方針であったがこの地に例外的に寺院を建造することを許可することとなった。
 江戸三十三観音札所の第5番目。
 処刑場跡地にあるとされるのが、延命地蔵尊。下部に書かれている「為囚死群霊離苦得脱」は、山岡鉄舟の筆である。



江戸八臂弁財天 江戸八臂弁財天。
江ノ島弁財天の三体の1つで、北条政子の発願と伝えられている。
弁財天の右に大聖歓喜天、左に大黒天が祀られている。

宝安稲荷大明神

                     

                     境内社の宝安稲荷大明神。
                  

伝馬町牢屋敷跡



伝馬町牢屋敷跡
 十思公園とその西隣の元日本橋小学校の周辺が伝馬町牢屋敷のあったところである。
 伝馬町牢屋敷は江戸初期延宝五年(1677)、常盤橋門外からこの地に移され、明治八年市ヶ谷監獄ができるまで約200年続いた。牢屋敷は町奉行支配下の石出帯刀が長を世襲で務めていた。その配下として40人〜80人程度の牢屋役人、獄丁50人程度で管理が行われていた。
 当時日本で最大規模の監獄で、総面積2618坪、周辺は土手で囲まれ、堀が巡らされており、南西部に表門、北東部に不浄門が設けられていた。
 囚人を収容する牢獄は、東牢と西牢で分けられ、また身分によって収容される牢獄が区別されており、大牢と二間牢は庶民、揚屋は御目見以下の幕臣、大名の家来、僧侶、医師、山伏が収容されていた。

銅鐘石町時の鐘



石町時の鐘
 江戸市中には、幕府公認の時の鐘が9カ所に設置されていたが、時の鐘で最も古いのが「石町の鐘」である。
 この鐘は、将軍秀忠の時、江戸城内の西の丸で撞いていた城鐘であった。鐘楼堂が御座の近くで差し障りがあるため、太鼓に替えて、鐘は日本橋石町に鐘楼堂を作ってそこへ移した。その管理費は町人から1ヶ月永楽銭1文を集めて経常費に当て、修理その他大金が必要な時は幕府から公金を受け取っていたといわれる。
 

 明治になるとともに鐘楼堂も無くなり、鐘だけが昭和五年に現在地に移転した。都指定の有形文化財である。

身延山別院



 身延山別院  油かけ大黒天像


 明治十六年(1883)山梨県身延山久遠寺主の新井日薩が創建された。創建時、身延山久遠寺から、室町後期、明応6年(1497)の施主の銘のある、日蓮聖人坐像を「願満日蓮大菩薩」を本尊とした。都指定有形文化財である。
 

本殿左手に「開運油かけ大黒天像」が祀られています。
【由来】
 そもそも身延別院に安置する油かけ大黒天の由来を尋ぬるに、現代の名優長谷川一夫氏は京都伏見の出生にしてそこに油かけ町あり、昔油を売る商人道端の石像に間違って油をかけて以来商売が大繁昌せりと。同しげ夫人は神仏に厚く帰依し、戦後間もなく、隅々この油かけ天神が夢に出て、帝都に祀り衆人と結縁せしめよとの霊夢を蒙り早速身延別院の住職藤井日静上人(後の身延山八十六世法主)に相談すると、上人膝を打ちて喜ぶ。 上人亦幼少の時、藤井家正に火災発生せんとするや大黒天神が槌を以て幼児を撃たんとす。驚いて目覚め裏に逃げて発火地点に至る。火防の大黒天として祀って来たれり 長谷川一夫同しげ夫人施主となり、油かけ天神を祀る由来なり。     日蓮大聖人弘安二年の『大黒天神御書』に云く、大黒天神は釈迦如来の後身、上行菩薩の垂迹(衆生を救うために仮の姿をとって世に出現す)なり。然れば無量の寿福円満せざるということなし。故に大黒という。亦大暗夜叉と云ひ、或は闘戦塚間浴油神とも云う。油を以て灰身を浴して所求を成ずるが故に、凡そ崇高の宝冠を改めて卑下の烏帽子を著し、阿雲の玉体を秘して塗炭の黒身を現す。右の手には一実中道の槌を捧げ法報応の三身を知らしむ。左の手には円教の袋を執て肩にかけて万法円備の真諦を顕す。極位の宝座を下りて道祖の草鞋を履いては浴諦常住の理を知らしむ。如説而修行其福不可限、受持法華名者福不可量、所願不虚亦於現世得其福報。  
                             弘安二年四月十日   日蓮 花押
                                   身延山別院の説明板より

宝田恵比寿神社



宝田恵比寿神社 宝田神社は慶長十一年(1606)の昔四百十余年前、江戸城外宝田村の鎮守様でありました。
 徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村(現在皇居内楓山付近)の転居を命ぜられましたので、馬込勘解由(かげゆ)と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申し上げ、住民を引卒して此の地に集団移転をしたのであります。
 馬込勘解由と云う人は家康公が入府の時、三河の国から随行して、此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので、平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申し上げたのが今日に至ったのであります。 作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。


 其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り、馬込勘解由は地主となって、三伝馬取締役に出世し、御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢・駿河・遠江・美濃・尾張等、家康公ゆかりの国々より商人を呼び集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商売発祥の地として大変賑わったのであります。
 現在も周辺の老舗、大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いております。


  宝田恵比寿神は商売繁昌、家族繁栄、火防の守護神として、崇敬者は広く関東一円に及び毎年十月十九日の「べったら市」二十日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年また新たまる」今年も年末が近づきお正月を迎える心構えをする商人にとって大切な年中行事として老舗は現在でも恵比寿講をお祝いして居るのであります。又若者により浅漬け大根(べったら)を混雑を利用し、参詣の婦人にべったらだーべったらだーと呼びながら着物の袖につけ婦人たちをからかったことから、べったらの呼名になったと伝えられております。
                         「寶田恵比寿神社べったら市保存会」栞より

於竹大日如来井戸跡



於竹大日如来井戸跡
 寛永の頃(1640年頃)江戸大伝馬町佐久間家(一説に馬込家)の下女お竹は日頃より慈悲心が深く、ある日、羽前羽黒山の行者より大日如来の化身であると告げられました。このことが市中に広がり、多くの人がお竹を拝むために訪れたといいます。現在、芝の心光院に、お竹の木像や使った流し板、お竹大日如来に信仰の厚かった桂昌院(五代綱吉の母)の納めた蒔絵の手文庫などが保存されています。また、お竹が愛用し、貧困者が市をなしたという井戸の跡に碑が建てられています。


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