湯島の歴史散歩


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旧岩崎邸庭園
 湯島の由来は、不忍池が海へ通じていた頃、この地が島状だったためついたという説、中世の頃に温泉(湯)が湧いていたためなど、その由来ははっきりとはしていない。
 湯島一丁目から四丁目までとそれほど広くない地域であるが、湯島神社、麟祥院、妻恋神社、霊雲寺など多くの寺院が存在している。これは、この地域が度重なる火事にあい、そこから逃れるために台地上になっている湯島周辺へ移転したためであり、開発の中心をそれらの寺院が担っていたためである。

 湯島天満宮(湯島天神)


  湯島天満宮(湯島天神)

 学問の神として有名な湯島天満宮。受験シーズンにはたくさんの学生たちが訪れる。
 雄略天皇の命によって天之手力雄命を祀る神社として458年に創建された。
 南北朝廷時代の文明四年年(1355)、住民の願いによって菅原道真を老松の下に勧請した。この時をもって正式な創建とする説もある。
 その後、太田道灌が社殿を再興し、江戸時代に入ると徳川幕府から庇護を受け、大きく発展していった。
 明治十八年に改築された社殿も老朽化が進み、平成七年(1995)、総檜造りで造営された。平成12年(2000)3月31日に「湯島神社」から「湯島天満宮」に改称した。
 寛文七年(1667)創建の「銅製表鳥居」は東京都指定有形文化財である。

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目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。



妻恋神社

 妻恋神社
 日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫を地元住民が祀ったのが、妻恋神社の起こりと伝えられている。当初は、湯島天神町にあったが、明暦の大火でこの地へと移った。
 江戸時代、正月2日の晩に枕の下に敷いて寝ると、よい夢を見るという縁起物の木版刷りの「夢枕」が売り出された。版木は、戦災で焼けたと思われていたが昭和五十二年摺師(すりし)の家で見つかり、幻の夢枕は、再び売り出されるようになった。

霊雲寺

 霊雲寺
 5代将軍、徳川綱吉の命を受け、元禄四年年(1691)、浄厳律師覚彦により創建された寺で。徳川幕府の永代祈願所として設けられた。

 関東大震災、第二次世界大戦の戦災で堂宇を焼失し、現在の堂宇は戦後復興されたものである。昭和二十二年(1947)に真言宗霊雲寺派を公称して真言律宗から独立した。

湯島聖堂

 
  湯島聖堂

 学問に精通していた5代将軍徳川綱吉によって、元禄三年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍岡の林家私邸にあった廟殿と林家の家塾をここに移した。これが現在の湯島聖堂の始まとなった。その後、およそ100年を経た寛政九年(1797)幕府直轄学校として、世に名高い「昌平坂学問所」が開設された。
 大成殿には、孔子の像や四賢像(顔子、曽子、思子、孟子)を祀っている。

 また、明治四年に文部省が置かれたほか、国立博物館、東京師範学校、東京女子師範学校などが置かれ、聖堂は近代教育発祥の地となった。

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麟祥院 と 春日局



麟祥院 春日局
 麟祥院は、3代将軍徳川家光の乳母春日局の菩提寺として知られている。
 春日局は、明智光秀の家臣斎藤利光の娘で、稲葉正成に嫁いだ。その後、家光の乳母となった。
 創建は、寛永元年(1624)春日局の願いによってできたとされる。春日の局はここで余生を送り、寛永二十年(1643)65歳で死去した。その没後、境内に墓地が造られた。当時はお寺の周囲にカラタチの生垣をめぐらせていたので、「からたち寺」と親しく呼ばれていた。

旧岩崎邸庭園

 

旧岩崎邸庭園
 もと三菱創設者、岩崎家の本邸。
 イギリス人建設家・コンドルが設計した洋館と撞球室、純和風建設の和館からなる。 3棟とも国重要文化財である。



旧岩崎邸庭園 袖塀
 【重要文化財 袖塀】
 岩崎家の家紋である「三階菱」の意匠は、三菱の社章の基となったものです。

石川啄木歌碑



石川啄木歌碑
 享年26歳の若さで亡くなった天才歌人、石川啄木。

 「二晩おきに夜の一時ころ 
      切通しの坂を上がりしも
               勤めなればかな」

 と書かれた歌碑。
 当時啄木は東京朝日新聞社の校正係として、本郷弓町の寄宿先から、病をおして夜勤に通っていたという。


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