渋谷、東の歴史散歩


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東福寺
 
 現在多くの若者たちでにぎわっている渋谷ですが、江戸時代初期の頃は畑に囲まれたのどかな風景が広がっていたといいます。
 「渋谷」の由来には定説はなく、いくつかの説が残されています。
 1.「塩谷の里」と呼ばれていたため、その「塩谷(しおや)」が「渋谷(しぶや)」に変わったとする説。
 2.平安時代末頃、源義家の家人河崎重家が京都の御所に侵入した盗賊を捕えました。この盗賊の名が渋谷権介盛国だった
  ことから、堀川の院は、河崎重家に「渋谷」の姓を与え、このことから、重家の領地であった谷盛庄が「渋谷」に変わったと
  する説。
 この他にも、川の水が赤錆びで「シブ色」だったため「シブヤ川」となった、渋谷川の流域の低地が、しぼんだ谷あいだったか
 らからなどという説が残っております。
 明治十七年(1885)に山手線が開通し、次々と新しい線ができてゆくとともに、渋谷の都市としての発展も進んでいくことになります。


 東は、恵比寿駅の東側をいい、新町名について常磐松と氷川が争って揉めに揉めた末、恵比寿東から恵比寿を取り除いたものだが、常磐松御用邸(常陸宮邸)がかつて東宮御所だったことからその東にあやかったもので、渋谷の東でもあると説明してようやく落ち着いたという。




 「金王八幡神社」

 
金王八幡神社
 金王八幡神社は、河崎基家によって寛治六年(1092)渋谷城内に創始されたといわれています。河崎基家は、平武基の子で名は武綱でしたが、源義家が後三年の役で勝利をおさめた際、功をたて、河崎土佐守基家の名を賜り武蔵谷盛の庄を与えられました。基家はこれは月旗の加護なりと義家とともに月旗を奉じて八幡宮を勧請しました。
 上の文章でも記載していますが、基家の子、重家が渋谷の姓を賜り、これが渋谷の地名の由来ではないかといわれています。
 また、重家の子、金王丸は17歳のとき源義朝に従い保元の乱に参加し大功をたて、麿の称号を賜るとともに名声を得、それにちなんで「今王八幡宮」と称するようになったといいます。その金王丸も頼朝の命を受け、義経を京都堀川で襲いましたが、逆に切られたといいます。境内にある金王桜は頼朝が金王丸を偲び植えたという伝説が残っています。金王桜は、江戸時代には郊外三銘木のひとつと数えられ、一重と八重が一枝に混在して咲く珍しい桜として、現在区指定の天然記念物となっています。

金王桜

 また、金王八幡神社は江戸時代、江戸八所八幡の一つとして数えられ、幕府要人の崇敬が厚かったといいいます。総漆塗りの現社殿は慶長十七年(1612)の建立で、春日の局が三代将軍を弟忠長が継ぐという風説を案じて祈願を重ねたことから、後に家光の具足始の儀が行われるに及び、社殿を造営したといわれます。現在、渋谷区内では最古の木造建築物で、区指定の有形文化財になっています。
 
金王八幡神社 芭蕉句碑


 その他、金王桜のとなりには、「しばらくは花の上なる月夜かな」と刻まれた芭蕉句碑があります。

目黒不動尊

目黒不動尊

 関東で最も古い不動霊場で、江戸五色不動の筆頭。江戸近郊の参詣行楽として賑わいました。


 「東福寺」


 東福寺 梵鐘と境内


 金王八幡の別当寺で渋谷山と号す天台宗の寺である東福寺は、承安三年(1173)圓鎭僧正によって開創され、のちに源頼朝が修復して東福寺と称したと伝えられています。
 境内に入ってすぐにある梵鐘は、宝永元年(1704)に鋳造された銘があり、梵鐘の周りには、金王八幡宮の縁起など渋谷の歴史が刻まれていて、その中に「後冷泉帝のとき、 渋谷の旧号谷盛の庄は親王院の地にして七郷に分る。渋谷郷はその一なり」と刻まれています。梵鐘は、渋谷区指定の有形文化財で、寺院は、区内最古の寺院として知られています。
また、渋谷の中心とは思えないほど境内は和に包まれた素晴らしいものになっています。

宮益御嶽神社

 宮益御嶽神社
 渋谷宮益坂と途中に建つ宮益御嶽神社は、創建は不明ですが、元亀年間(1570〜73)に甲斐武田家の石田勧解由茂昌所有の尊像を祀ったとの伝えがあります。  また、狛犬が全国的にもめずらしいとされる日本狼の石像になっています。

常盤松の碑

 常盤松の碑
 東4-4-9に建つ常盤松の碑一帯は、大正十年頃まで皇室の御料乳牛場で、北側の構内に樹齢400年を超える見事な常盤松があったといいます。この碑は、御料乳牛場となる前の地主であった薩摩島津家の薩摩藩士が建てたものです。
 松は第二次世界大戦で焼失し、今は新たな松に植え替えられたものとなっています。 

渋谷氷川神社

 渋谷氷川神社
 慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したと伝えられています。
 かつての下渋谷一帯の鎮守で、境内には江戸郊外三大相撲の一つ金王相撲の相撲場の跡があり、現在でも少年相撲大会などが行われています。

宝泉寺

 宝泉寺
 渋谷氷川神社の別当寺で、慈覚大師によって810年頃開基とされているが、定かではありません。
 山門を入り左に行くと常盤薬師(伝慈覚大師作)が常盤薬師堂に安置されています。

温故学会

 塙保己一
 延享三年(1746)五月五日、埼玉県本庄市児玉町に、父荻野宇兵衛、母きよの長男として生まれた塙保己一は、7歳の時に失明をするも、国学を研究し和学講談所を開設した。
 温故学会は、塙保己一の偉業顕彰の目的で設立された組織で、塙保己一が編纂した古書集大成『群書類従』の版木を保管したり、盲人福祉事業等を行っています。

服部南郭別邸跡

 服部南郭別邸跡
 東2-10-13に服部南郭別邸跡がある。
 江戸中期の儒学者である服部南郭は、時の権力者であった柳沢吉保に仕え、また、荻生徂徠の門人として古文辞学と詩を学びましたが、34歳で柳沢家を辞め、ここに私塾を開いて後進の指導に努めました。
 宝歴九年(1759)77歳で亡くなりました。

室泉寺

 
 室泉寺
 府内八十八カ所7番の札所である室泉寺。高野山を模した築山があり参拝者が多かったという。
 元禄十三年(1700)松平忠益が下渋谷の抱屋敷を神鳳寺の僧快圓に寄付し宿寺とした。そこで真言律宗に改め、源秀山永松院室泉寺と称した。開基は忠益で、開山は快圓で両人の木像は本堂に安置してある。聖天堂
 寺宝の「興正菩薩像の掛軸」は、明治四十五年(1912)国指定の重要文化財である。


 境内に歓喜天を祀る聖天堂があって花柳界の信仰が篤く多くの人たちが参拝に訪れる。



源秀地蔵堂
 山門左に源秀地蔵堂があり、堂内には源秀地蔵のほか数体の地蔵が収められている。14歳の娘が足腰立たなくなり、願掛けをしたところご利益で治ったので元文五年(1740)に奉納したという。

福昌寺

 
福昌寺
山号を渋谷山といい曹洞宗の寺である福昌寺。現在は、とても近代的な建物となっているが、創建は詳らかではなく天正・文禄の頃と推測される古刹である。
 貞享二年(1685)の縁起に慈覚大師作と伝える阿弥陀如来像を安置している。
 門の左側にはに閻魔堂が建っている。
 

福昌寺 石棺仏
  本堂手前の石棺仏は阿弥陀像で、15世紀頃の石仏である。(15世紀頃は彫刻そのもの少ないといわれている)また、その上材料となった石材が、六世紀頃の古墳の蓋として使われていた和泉砂岩である。関東ではこれのみというこの石棺仏は和歌山県から持ち出され、昭和二十五年に東光園が手に入れて寄進したものである。


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