下目黒の歴史散歩

 
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大円寺 五百羅漢
 この地は、3代将軍徳川家光の帰依を受け、53棟に及ぶ伽監が復興・完成し、宏大華麗な寺となった目黒不動尊ができて以来、幕府の保護のもと、歴代将軍をはじめ江戸庶民の信仰も厚く、江戸近郊の最も有名な参詣行楽地のひとつとなり、江戸から明治、大正にかけて繁栄し、門前町としてもにぎわっていました。とくに、名物の餅花や栗餅を売る店や、飴で有名になった「桐屋」の前には、長い行列ができていたといいます。
 寛永のころになると、幕府から寺社への補助金が減ったので、寺社が修理費等の工面のために富くじを売ることが許されるようになる。元禄には幕府が禁令を出したが、ひそかに行う者が絶えなかったといわれてる。やがて江戸でも行われるようになり、文化9年(1812年)に始まった目黒不動と湯島天神、同14年(1817年)の谷中の感応寺(現、天王寺)は、「江戸の三富」と称される程盛んになった。


 「青木昆陽の墓」と「大鳥神社」

青木昆陽の墓 
 8代将軍徳川吉宗は、すでに西日本では飢饉の際の救荒作物として知られていた甘藷(サツマイモ)の栽培を昆陽に命じる。昆陽は全国各地に甘藷を普及させ、この結果、享保の大飢饉以降、関東地方や離島において薩摩芋の栽培が普及し、天明の大飢饉では多くの人々の命を救ったと評される。
 毎年、10月28日は(目黒不動の縁日)には、墓前で甘藷祭が開かれている。

大鳥神社
 
 
 平安時代に創建され、約1200年の歴史を誇る目黒の大鳥神社、旧目黒村の総鎮守で、目黒区内では最古の神社とされています。 毎年11月の「酉の市」は有名で、商売繁盛・開運招福の神様です。
 また、9月9日の例大祭では、古くから伝わる「太々神楽」が行われ、剣の舞が奉納されます。境内のオオアカガシは、葉が普通の2倍もある珍種で、都天然記念物となっています。古来、幸運のシンボルとされてきた櫛を祀る「櫛塚」もある。
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海雲寺

海雲寺

 「品川の荒神さん」として知られ、火と水、台所の神様として親しまれています。


 「蟠竜寺」と「弁財天」

 蟠竜寺
 目黒行人坂付近にあった称明院を増上寺の霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するために1709年ここへ移し、「霊雲山称明院蟠竜寺」と改名、再建しました。
 本堂に安置されている本尊の阿弥陀如来座像は平安時代の名作であり、都の指定文化財になっています。
 また、本尊とともに安置されている善光寺式阿弥陀三尊像は、天明年間(1781〜1789)に造立されたものです。
蟠竜寺 弁財天


 

 

 蟠竜寺は、山手七福神のひとつであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石像弁財天、弁天堂内に木造弁財天が安置されています。
 

大聖院

大聖院
 1557年の創建といわれる天台宗の寺院。もとは大鳥神社の別当寺で、瀧泉寺(目黒不動)の子院。徳川幕府の弾圧を受けた隠れ切支丹が庭園の祠内に礼拝物として密かに置かれていたといわれる「切支丹灯籠」もしくは「三体地蔵」と呼ばれている織部式の石灯籠が境内右側に置かれている。

海福寺

海福寺
 中国、明の高僧、隠元禅師が寺の開祖。万治元年(1658)日本で最初に黄ばく宗の寺として深川にあったが、明治43年水害のため目黒に移ることとなった。
 海福寺の梵鐘は天和3年(1683)に、名匠藤原正次が鋳造したもので都指定の文化財です。朱塗の四脚門は上落合の泰雲寺の山門であったが、明治になって移され、四国宇和島の伊達家(笹に雀)が寄進したものです。 石段の脇には永代橋墜落供養塔もあります。
 

五百羅漢

五百羅漢
 天恩山五百羅漢寺は、元禄八年(1695)に江戸の本所に建立された由緒ある名刹で、8代将軍徳川吉宗の援助を得て繁栄を誇り「本所のらかんさん」として江戸の人々から親しまれていました。

松雲羅漢

松雲羅漢
 恩山五百羅漢寺の開基松雲禅師は、元禄年中、5代将軍綱吉公の生母桂昌院をはじめ江戸中の人びとから寄せられた浄財をもとに536体の羅漢像を彫刻し、本所五ッ目に五百羅漢寺を築いた傑僧である。

大円寺

大円寺
 行人坂の途中にある天台宗の寺で、明和9年(1772)江戸市中を焼けつくした火元となった寺で、嘉永元年(1848)になってようやく再建が許された。五百羅漢石像が段状に安置されているが、これは「行人坂火事」の焼死者を供養したものという。

大黒天

大円寺 大黒天
 大円寺に祀られている大黒天は、江戸城の裏鬼門の鎮守として比叡山から勧請した像で、「江戸三大大黒天」のひとつとして信仰を集めています。


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